愛媛県西条市 旧加茂小学校

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    平成29年4月8日(土)、愛媛県の廃村めぐり。 
    旧寒風山トンネルには午後4時30分頃には戻り着いたが、天気がいま一つなので
    3つ目の目的地 黒瀬本郷(黒瀬ダム水没地)行きは取りやめにした。

     

    帰り道、R.193沿いのサクラ並木がきれいだったことから、
    旧加茂小学校へ立ち寄ることを思いついた。
    基安鉱山が所在した西条市加茂地区は、昭和の大合併まで新居郡加茂村という自治体だった。
    昭和10年の国勢調査人口は、2,398人とある。
    荒獅子さんの故郷で、今も両親が住まれるという加茂地区だが
    「今は、地区全体で140人しか住んでいない」とのこと。

     

    加茂小学校は、昭和47年 地区内の4つの小学校を名目統合し成立。
    昭和48年 新校舎が落成(実質統合)、平成7年 西条市街の大町小学校に統合し閉校。
    地区内の4つの小学校(2つの分校)の児童数(S.34)は、
    千町小学校 123名、荒川小学校 56名、下津池小学校 69名、同吉居分校 13名、
    中之池小学校 57名、同基安分校 59名だった(計377名)。

     

    西条市街(大町小学校)から加茂地区(旧加茂小学校)は、7辧淵ルマで15分ほど)しか
    離れていないが、「これほど過疎が進むのか」と驚く現実がある。
    獅子舞がある秋まつりは、まず地域の神社に奉納され、公民館でも行われるという。
    どんな感じで行われるのか、少し興味が湧いた。

     

     

     画像1 旧加茂小学校の校舎とサクラ
          RC造2階建てのしっかりした校舎は、公民館として使われている。
          新校舎落成の頃は苗木だったというサクラは、大きく育って花を咲かせていた。

     

     

     画像2 「加茂小学校跡」の石柱
          並んで「不屈の心」と刻まれた石碑が建っていた。

     

        (2017年4月8日(土)午後5時15分頃)
     


    愛媛県西条市 基安(その2)

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      平成29年4月8日(土)、愛媛県の廃村めぐり。 
      往時の基安までの道は、主に川来須(新寒風山トンネル)から

      桂谷をさかのぼる山道だったが、
      旧寒風山トンネル開通は昭和39年なので、

      トンネル入口からの山道も使われていたことだろう。

       

      中之池小学校基安分校は、へき地等級3級、児童数59名(S.34)、
      昭和12年開校、昭和44年閉校。閉校年度(S.43)の児童数はわずか1名だった。
      基安鉱山は主に銅を産出した鉱山で、明治初期から昭和47年まで稼働した。
      昭和18年からは住友の経営となり、別子銅山の銅鉱とともに四阪島で精錬されたという。
      集落の閉村時期は、鉱山の閉山と同じ昭和47年ではないかと推測される。
      斜面にせり出た校庭にバックネットが残る分校跡は、

      たどり着いた段よりも一段高い場所にあった。
      せり出た部分の3割程度は崩壊していた。
      ここも荒獅子さんの案内があったからこそたどり着けた感じがした。

       

      基安では、木造の家屋は閉村時にすべて取り壊されたが、
      コンクリ造りの小屋が2つ残っていた。
      足を運んでみると中に石炭が見られたので、燃料庫だったと思われる。

       

      帰り道、二つ目の谷はまわり込むと山道で越えることができた。
      一つ目の谷は崩落箇所よりもだいぶ手前で越えて、
      カードレールを目指して、道なき道を這い上がった。

       

       

       画像1 基安分校、斜面にせり出た校庭(その1)
            象徴的なバックネットは、閉校から49年経っても
            山中にしっかり残っていた。

       

       

       画像2 基安分校、斜面にせり出た校庭(その2)
            下から見ると、石垣の前に鉄骨が組まれていることがわかる。

       

       

       画像3 基安分校、斜面にせり出た校庭(その3)
            眼下に霧のもととなる雲が見える。
            後で調べると、分校跡の標高は1007mあった。
            「四国には1000m超の学校跡はない」と思っていたが、
            谷道(徳島県旧東祖谷山村、1051m)に続いて、基安が加わった。

       

          (2017年4月8日(土)午後3時30分頃)
       


      愛媛県西条市 基安(その1)

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        平成29年4月8日(土)、愛媛県の廃村めぐり。 
        途中ノ川からは入口(馬返)まで来た道を戻り、クルマを湯浪で折り返して、
        西条市街付近を経て、2番目の目標 基安鉱山集落跡を目指した。

         

        基安は私の予測では、R.194新寒風山トンネル入口付近から桂谷沿いの道に入り
        上り詰めたところだったのだが、
        旧寒風山トンネル入口の脇から、少々下っていったほうが行きやすいことが判明した。

        西条市街付近では、霧に加えて雨が降り出した。
        旧寒風山トンネル入口の標高は1115m。
        西条では先週末厳しい冷え込みで雪が降っており、「残っているかも」と少々心配する。
        しかし到着すると、雨は降っていたが、霧からは抜け出しており、少し安心する。

         

        折り畳み傘をさして、首にタオルを巻いて基安への道をたどり始めたのは午後2時40分。
        道ははじめの谷のところで崩落してなくなっていた。
        10年ほど前に訪ねた荒獅子さんも「こりゃまいったなあ」という雰囲気だ。
        下って上って谷を越えて、下りの山道をしばらく歩くと、
        ガラス瓶など生活の痕跡が見つかる。
        二つ目の谷でも道が見当たらす、汗だく、泥まみれになりながら、下って上って谷を越えた。
        谷の先、道なき道をしばらく歩くと、
        出発から40分ほどで建物の基礎と石垣が見つかり、基安鉱山集落跡に到着した。

         

        弱い雨が降っていたが、
        折り畳み傘は、はじめの谷の崩落地点からずっとポケットの中だった。
        タオルはとても役に立った。

         

         

         画像1 旧寒風山トンネル入口脇、基安への道のはじまり
              ゲートからはじめの谷の崩落地点までは1分もかからない。
              崩落地点の谷間には雪が残っていた。

         

         

         画像2 基安への道の途中
              道筋はあったりなかったりで、とてもわかりにくい。
              ピンクリボンの類もなかった。

         

         

         画像3 基安鉱山集落跡
              石垣は北東の方角を向いている。
              日当たりの加減からか、コケの成長具合がとてもよい。

         

            (2017年4月8日(土)午後2時40分〜3時20分頃)


        愛媛県西条市(旧小松町 石鎚村)途中ノ川(その2)

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          平成29年4月8日(土)、愛媛県の廃村めぐり。 
          途中ノ川分校跡は、林道跡終点から右ななめの方向に斜面を上がったところにあるという。
          茂みの薄いこの時期にして、道らしいものはほぼ見当たらず、
          荒獅子さんの案内がなかったら、たどり着けなかったことだろう。

           

          石鎚小学校途中ノ川分校は、へき地等級3級、児童数21名(S.34)、
          明治41年開校、昭和42年閉校。閉校年度(S.41)の児童数は5名だった。
          途中ノ川があった自治体 周桑郡石鎚村(昭和26年まで千足山村、
          昭和30年 合併により小松町、平成16年 合併により西条市)は、
          信仰の山 石鎚山麓の山村で、平成初頃に自治体規模の廃村となっている。

           

          明治20年 途中ノ川に簡易小学校が設立されたが、
          村の財政の厳しさ、村民が教育を望まなかったことから、明治25年には閉校となり、
          千足山村は義務教育免除地となった。
          しかし、「子供達への教育は必要だ」と、県や郡役所が村に再開校を勧めた。
          明治41年 郡費補助を受けて千足山村尋常小学校本校が途中ノ川に開校。
          村外れの途中ノ川に本校ができたのは、比較的市街地(小松、石根)に近く、
          簡易小学校閉校後、私立の家庭教育所が開設されていたことによるのではないかと考えられている。
          大正12年 本校が村中心部(郷、昭和4年からは虎杖土場)に移転後は、分校として存続、
          昭和35年からは石根小学校途中ノ川分校となり、石鎚小学校とは切り離された。
          児童数は昭和37年に急減しており(S.36=22名、S.37=7名)、何かしら動きがあったことがうかがえる。
          途中ノ川の離村時期ははっきりとはわからないが、分校の閉校と同年(昭和42年)か、
          それほど経たない時期ではないかと思われる。

           

          霧の中、林道跡終点から道なき道を10分ほど歩くと、視界に石垣が見えてきて
          入口の石段を上がり、分校跡に到着した。
          分校跡には「千足山村途中ノ川本校」「明治41年」「曽我喜助建立」と刻まれた石柱が建っていた。
          小さな石柱だが「ここに学校があった」という証明であり、旅人にはとてもありがたい。
          ひと息ついて、荒獅子さんと語らいながら昼食をとった。

           

           

           画像1 途中ノ川分校跡の石垣と石段
                石垣、石段ともにしっかりしており、
                集落において大切な場所だったことが感じられる。

           

           

           画像2 途中ノ川分校跡の校地と石柱
                石柱は、入口のほぼ正面、
                後方の石垣に背を向けて建っていた。

           

           

           画像3 途中ノ川分校跡の石柱
                「明治41年」は碑の右側面に、「曽我喜助建立」は左側面に刻まれている。
                碑の様子からすると、明治41年に建立されたものではないと思われる。
                曽我喜助さんがいつの時代の方なのか、知りたいところだ。

           

              (2017年4月8日(土)12時45分頃)


          愛媛県西条市(旧小松町 石鎚村)途中ノ川(その1)

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            平成29年4月8日(土)、愛媛県の廃村めぐり。 
            伊予小松駅着は11時28分。同行していただく荒獅子さんが迎えてくれた。
            荒獅子さんは「加茂の荒獅子」Webの管理者で、
            ムック本「廃村をゆく」にも旧石鎚村レポートで参加していただいている。
            かれこれ10年超のやり取りがあるが、お会いするのは今回が初めてだ。

             

            馬返(途中ノ川入口)着は11時55分。山の喫茶店「てんとうむし」は閉まっていた。
            湯浪へと続く車道は、四国八十八か所の横峰寺へ続くので風通しはよさそうだ。
            天気は曇だが、霧がかかっていて視界はよくない。

             

            木を組んだ橋がある川を渡って山道を登ると、かつての林道に合流し、
            歩くこと20分ほど、比較的すんなりと途中ノ川集落跡(下途中ノ川)までたどり着いた。
            その先に上途中ノ川があるが、林道跡はここで止まっている。
            かつての途中ノ川の戸数は15戸。姓はほぼ全戸曽我さんだ。
            昭和40年代までこの山の中に暮らしがあったとはにわかに信じがたいが
            おそらく「昔から暮らしがあったから」住まれていたのだろう。

             

             

             画像1 馬返(途中ノ川入口)にある小さな堰
                  霧がかかっているため、ぼんやりしている。

             

             

             画像2 馬返、川に架かる手作りの木橋
                  上途中ノ川に建っているログハウスの方が
                  作られたものではないかとのこと。

             

             

             画像3 途中ノ川集落跡
                  見上げた先に大きな石垣が見える
                  石垣の上には、個人の民家が建っていた。

             

                (2017年4月8日(土)正午〜12時30分頃)


            伊予小松駅

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              平成29年4月8日(土)、愛媛県の廃村めぐり。 
              起床は未明4時30分。暖かいが、弱い雨が降っている。
              羽田発7時35分の便(ANA)に乗って、1時間40分で松山空港に着く。
              飛行機は1列10席のK席、空いていて快適だった。

               

              松山空港は市街に近く、JRタッチアンドゴーで
              松山駅発9時34分の伊予西条行き普通電車(1両編成)に乗ることができた。
              まずまずの乗客があるが、車両にトイレは付いていなかった。
              長時間停車の今治でトイレに行って、壬生川でパンを調達する。

               

              最初にめざす廃校廃村は、西条市(旧小松町)の途中ノ川だ。
              最寄りの伊予小松駅着は11時28分。無人駅で、特急は停まらない。
              駅では満開のサクラと、同行していただく荒獅子さんが迎えてくれた。
              天気は湿り気が多い曇で、霧が出ていた。

               

               

               画像1 伊予小松駅と満開のサクラ
                    ねらって見れる風景ではない
                    旅先で満開のサクラがあると、幸せな気分になる

               

               

               画像2 伊予小松駅の駅名標
                    JR四国は、水色がローカルカラーで
                    普通電車の帯も水色だった

               

                  (2017年4月8日(土)午前11時30分頃)


              愛媛県の廃村に行ってきました

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                4月8日(土)から9日(日)まで、
                愛媛県の廃村に行ってきました。
                訪ねた廃校廃村は、西条市(旧小松町石鎚村)途中ノ川、基安、
                今治市比岐島、(旧宮窪町)四阪島の4か所です。

                オプションで、今治市津島を訪ねました。

                 

                津島は来島海峡の少し先、大島の西側(吉海町)にあり、
                かつて海運業で栄え、漁業は行われなかった。
                最盛期の人口は600名を超えたが、
                昭和30年代、帆船の時代が終わるとともに過疎化が進み、
                現在は10戸13名、平均年齢は80歳とのこと。 
                平成7年では37戸64名で、高校生がいたとあるから、
                この20年で急激に過疎化したことがわかる。

                 

                津島を訪ねて、廃村から一歩引いた目で旅をすることの大切さを
                感じた旅でした。
                あと、例年より遅めのサクラが各所で満開になっていたのも
                印象的でした。

                 

                 

                 画像1 基安のコケ生した石垣
                      基安は、旧寒風山トンネルのそばにあった鉱山集落で、
                      標高1000m超える高所にありました(学校跡は1007m)。
                      通じる道は崩落で失われており、
                      這いつくばって谷を下りたり上ったりしながら
                      何とかたどりつきました。

                 

                    (2017年4月8日(土)午後3時30分頃)

                 

                 

                 画像2 四阪島に残るRC四階建て鉱員住宅の廃墟
                      四阪島は、瀬戸内海燧灘の西部にある5つの小島からなり、
                      家ノ島に住友の工場、美濃島に集落跡があります。
                      私有地で今も工場が稼働しているため、
                      上陸は禁止されています。

                 

                    (2017年4月9日(日)午後1時頃)

                 

                 

                 画像3 津島のネコ
                      最初に学校跡をめざして多数の家屋が建つ路地を歩いたとき、
                      誰に会うこともなく、ロケのセットのような感じがしました。
                      海沿いの道で、人よりも先にネコ達に出会いました。
                      緊張感が途切れて、ホッとしたものでした。

                 

                    (2017年4月9日(日)午後2時45分頃)
                 


                青森県六ヶ所村 上弥栄(その3)

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                  平成29年2月13日(月)、青森県の廃村めぐり、 
                  上弥栄「入植20周年記念」の碑、裏面を見てみると
                  「開拓」の大きな2文字と、「村長  沼田正」という小さな名前が刻まれていた。
                  私は思わず息をのんだ。

                   

                  六ヶ所村の3か所の廃校廃村をめぐるにあたって、雪の季節を選んだのは
                  「何もないだろうから」「雪があまりなく、行きやすそうだから」という
                  やや消極的な理由からだったが、
                  ここにしかないものが多く見出された。

                   

                  訪ねる前に、「村が消えた」を読むことができたのはよかった。
                  あと、村影さんがその存在を指摘してくれたことに、感謝することしきりです。

                   

                  下北道 六ヶ所ICは、「入植20周年記念」の碑から1匱紊靴離れていない。
                  七戸十和田駅夕方4時53分発のはやぶさに乗るために帰り道を急ぐと、
                  43劼瞭擦里蠅鬚よそ1時間で、駅に到着した。

                   

                   

                   画像1 上弥栄「入植20周年記念」の碑(裏面)
                      碑の建立は昭和41年4月。
                      大規模開発が表面化する前だ。
                      六ヶ所村長は「入植20周年」を記念して、「開拓」と刻んだのだろうか。

                   

                   

                   画像2 上弥栄の風景
                      昭和40年代の上弥栄は、酪農が主な生業だった。
                      石油備蓄基地のタンクが立ち並ぶ平原の多くは、牧草地だったのだろう。

                   

                     (2017年2月13日(月)午後3時頃)


                  青森県六ヶ所村 上弥栄(その2)

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                    平成29年2月13日(月)、青森県の廃村めぐり、 
                    「村が消えた むつ小川原 農民と国家」(本田靖春著、講談社文庫(1985))
                    には、子供や女性、老人も含めて、
                    戦後開拓集落 上弥栄の人々が数多く、実名で登場する。
                    印象深く残った3名の登場人物の概略をまとめる(敬称略)。

                     

                    ◎清野光栄 
                     明治44年9月、山形県上山町狸森生まれ
                     昭和14年4月、満州 三江省 弥栄村へ入植
                     昭和23年4月、単身で復員
                     昭和24年4月、単身で上弥栄に入植
                            以来、酪農には手を出さず、畑作一筋で上弥栄で営農する。
                     部落が解散した後も上弥栄に残り、廃校の管理を担う。

                     

                    ◎佐藤柾五郎
                     大正11年、青森県黒石町生まれ
                     満州 三江省 東北村で開拓に従事
                     昭和22年5月、上弥栄に第1次入植団(33戸)が入ったときからの
                            中心人物で、「上弥栄五人衆」のひとり。
                     むつ小川原開発が表面化して、用地買収に集落が揺れた頃、組合長を勤める。
                     移転後は、黒石市で隠居の日を送る。

                     

                    ◎小田桐清一
                     昭和5年、樺太生まれ、父は青森県弘前市出身。
                     昭和23年9月、父とともに上弥栄に入植
                     昭和28年、父が死去。以来、母と6人兄弟の一家の支柱となって、
                          上弥栄で営農し、負債に挑む。
                     昭和40年代、「上弥栄で数少ない成功者」と呼ばれる。
                     移転後は、三沢市で食堂経営者となる。

                     

                    上弥栄に記念碑があることは、事前の調べでわかっていた。
                    場所は石油備蓄基地の西のはずれで、地形図にも碑のマークが記されている。
                    上弥栄小学校跡跡から西にクルマを走らせて、
                    心当たりの場所付近を車窓から見たが、碑は見つからなかった。

                     

                    そのうちに下北道 六ヶ所ICを示す案内板が見えてきたので、折り返したところ、
                    道よりも少し入った柵沿いに、碑を見つけることができた。

                    クルマを停めて、長靴に履き替えて碑を見に行った。
                    碑の表面には、次のように刻まれていた。

                    ◎で「村が消えた むつ小川原 農民と国家」の登場人物を示した。

                     

                    >入植20周年記念
                    >昭和41年4月15日

                    >◎佐藤柾五郎
                    > 沼山澄司
                    >◎高橋正由
                    > 山下藤一郎
                    > 工藤勝英
                    >◎山田岩次郎
                    > 佐々木孝之助
                    > 鈴木源治
                    > 沼山長之助
                    > 佐々木正次郎
                    > 金子吉雄
                    >◎江口辨重
                    >◎林茂利雄

                    > 工藤喜一
                    >◎土屋與右エ門
                    > 古川勇策
                    > 古川淺市
                    > 一戸義市
                    > 柏崎定雄
                    > 大杉三太郎
                    >◎早坂良次
                    > 山内長助
                    >◎小田桐清一
                    > 有川増吉
                    >◎渡部幸助
                    > 鈴木太寿

                    > 高田栄三郎
                    > 沼尾由太郎
                    > 一戸柾吉
                    > 松田清一
                    > 佐藤吉五郎
                    > 庄司保太郎
                    > 井上市郎
                    > 阿部金次郎
                    > 安孫子治郎
                    > 戸田光吉
                    >◎佐藤三太郎
                    > 後藤庄五郎
                    >◎村形久

                    > 佐藤村太
                    > 早坂菊雄
                    >◎清野光栄
                    > 遠藤熊次郎
                    > 川合卯蔵
                    > 大木芳春
                    > 伊勢谷伴蔵
                    > 松田義夫
                    > 松田武
                    > 佐藤武美
                    > 黒滝清一
                    > 工藤定男
                    > 松田傳

                    > 沼尾松三郎
                    > 二階堂篤治
                    > 上野郁夫
                    > 富田敏蔵

                     

                    また、台座の銘板には、次のように記されていた。

                     

                    >この碑は、現在地より東方3劼涼呂暴蟶澆靴燭、
                    >むつ小川原開発計画石油国家備蓄基地々内となったため
                    >むつ小川原開発株式会社の御協力により移転されたものである。
                    > 昭和56年10月

                     

                    碑に記されていたのは、「入植20周年記念」という右から始まる横書きの文字と
                    世帯主56名の名前だけだったが、
                    今は石油備蓄基地となった上弥栄に繰り広げられた戦後開拓のことを偲ぶには
                    十分すぎるぐらいの存在感があった。

                     

                     

                     画像1:上弥栄「入植20周年記念」の碑(その1)

                     

                     

                     画像2:上弥栄「入植20周年記念」の碑(その2)

                     

                     

                     画像3:上弥栄「入植20周年記念」の碑(その3)

                     

                       (2017年2月13日(月)午後2時55分頃)


                    青森県六ヶ所村 上弥栄(その1)

                    0

                      平成29年2月13日(月)、青森県の廃村めぐり、 
                      弥栄平・弥栄山(仮称)からは、西に2劼曚瀕イ譴
                      三つ目の廃校廃村 上弥栄(かみいやさか)の小学校跡地へと向かった。

                       

                      この旅に備えて、六ヶ所村の3か所の廃校廃村について調べていたところ、
                      「村が消えた むつ小川原 農民と国家」(本田靖春著、講談社文庫(1985))
                      戦後開拓集落 上弥栄の創立から解散までを
                      満蒙開拓から大規模開発まで、時代背景とともに描いた
                      ノンフィクションを読むことになった。

                      本の冒頭と末尾あたりに記された、印象的なひとこまを引用する。

                       

                      > 冬、旧上弥栄小学校あたりに立つと、積雪がかつての営みの跡を
                      >一面に覆いかくして
                      >目にする変化は、ゆるやかな高低と光と影が描き分ける白の濃淡と、
                      >その先に取り残された防風林の薄墨色ぐらいのものである。
                      > 広がる風景は、まさに地の果てのそれであって、
                      >小学校の廃屋は、荒れ地に挑んで空しく終わった79戸の墓標と映る。

                       

                      上弥栄小学校は、へき地等級2級、児童数109名(S.34)、昭和24年開校、同50年閉校。 
                      戦後開拓集落で、主に満州 弥栄村からの引揚者が昭和22年5月に入植して成立した。
                      上弥栄の名称は、満州 弥栄村ゆかりの方が多数を占めていたことと、
                      集落が在来集落 弥栄平の上手にあることから名付けられた。
                      上弥栄の人口は、306名(S.40)、9名(S.60)、ゼロ(H.4)と推移している。 
                      むつ小川原開発により上弥栄の開拓農業組合は、昭和48年4月6日に解散した。
                      閉校年との2年のギャップは、弥栄平の児童が上弥栄小学校に通っていたから 
                      と思われる。 

                       

                      現在上弥栄は、石油備蓄基地のタンクに覆われている。
                      風力発電の大きな風車や、太陽光発電のパネルも多数建ってあり、
                      さながらエネルギーフロンティアといった様相になっている。
                      小学校跡地と思われる場所のそばにクルマを停めて、
                      雪が積もっていない範囲から周囲を見渡したが、
                      当然のことながら、往時をしのぶものは何も見当たらなかった。

                       

                       

                       画像1 上弥栄小学校跡の風景(その1)

                       

                       

                       画像2 上弥栄小学校跡の風景(その2)

                       

                       

                       画像3 上弥栄小学校跡の風景(その3)

                       

                      「地理院地図」Webのかつての上弥栄の場所には
                      「上弥平」(かみいやだいら?)という地名が記されている。
                      六ヶ所村発行のパンフレットには「上弥栄」と記されているので、
                      上弥平は誤植と思われる。
                      誤植とすれば、地名が誤って引き継がれるおそれがあり、気になるところだ。

                       

                         (2017年2月13日(月)午後2時40分頃)


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