福井県大野市 下笹又「萬霊之碑」

  • 2016.04.29 Friday
  • 07:24
平成28年4月16日(土)、福井県大野市旧西谷村、
中島、上笹又への旅。 
上若生子−上笹又間にある、下笹又(しもささまた)の
離村記念碑「萬霊之碑」は、旅の終わり、帰り道に訪ねた。 

下笹又よりも山側が、旧西谷村の集落となる。
旧西谷村は11集落からなる自治体だったが、
昭和32年の笹生川ダム建設、昭和38年1月の三八豪雪、
昭和40年9月の奥越集中豪雨の被害を経て、
昭和44年8月、真名川ダム建設のため
中島、黒当戸、上笹又、下笹又が離村し、
自治体規模の廃村となった(大野市への編入は昭和45年7月)。

私はこれまで、小沢を除く旧西谷村10集落を訪ねたが、
本戸を除く9集落には離村記念碑を見い出している。
その姿は、集落ごとにさまざまだ。
旧西谷村は、離村記念碑の設置において、優等生である。



 画像1 : 下笹又「萬霊之碑」(その1)
  碑の上にサクラの花を乗せる形となっていた。



 画像2 : 下笹又「萬霊之碑」(その2)
  碑の正面には離村記念「萬霊之碑」と刻まれている。
  集落名 下笹又は、裏面に小さく刻まれているだけである。
  建立は昭和44年8月、下笹又一同となっている。

 (2016年4月16日(土)午後2時20分頃)

石川県金沢市 菊水 分校跡の石碑

  • 2016.04.27 Wednesday
  • 07:20
平成27年9月26日(土)、石川県金沢市 ダム関係の廃村
堂、菊水への旅。 
菊水(きくすい)分校跡地には、大きな石碑が建っていた。
従来、離村記念碑と分校跡の碑は、別物と思っていたが、
廃村に建つ分校跡の碑は、「離村関連記念碑」として
ひとつと考えてもよい感じがしてきている。

内川小学校菊水分校は,へき地等級3級,児童数59名(S.34),
明治11年開校,昭和47年(年度途中)閉校。同年閉町。
最終年度(S.47年度)の児童数は9名だった。



 画像1 : 内川小学校菊水分校跡の石碑(その1)
  跡地は、菊水町ポケットパークとして整備されている。
  サクラの木があるから、花の頃はひと味違うことだろう。



 画像2 : 内川小学校菊水分校跡の石碑(その2)
  金沢駅から菊水までは22kmある。
  探索の足は「まちのり」(レンタサイクル)を使った。

  (2015年 9月26日(土)午後2時頃)


 

福井県大野市 上若生子 「ふるさとの碑」と学校跡の碑

  • 2016.04.26 Tuesday
  • 07:04
平成28年4月16日(土)、福井県大野市旧西谷村、
中島、上笹又への旅。 
麻那姫像、下若生子「ふるさとの碑」に続いて、
上若生子(かみわかご)「ふるさとの碑」を訪ねた。 

敷地には「若生子小学校跡」という石柱も建っている。
若生子小学校はへき地等級1級,児童数74名(S.34),
明治8年開校,昭和44年(年度途中)閉校。集落も同年閉村。
最終年度(S.44年度)の児童数は13名だった。



 画像1 : 下若生子「ふるさとの碑」と学校跡の碑
  サクラの花に春が感じられる
  集落、学校跡はともに湖の中なのだろう。



 画像2 : 「若生子小学校跡」の碑、側面と裏面 
  学制は明治6年(1873年)だから、
  百年後は1973年(昭和48年)に建ったことになる。



 画像3 : 「賞状 優良造林地の部 奨励賞」の碑
  「上若生子生産森林組合」の名前があって、
  中日新聞社から贈られた賞状をもとにしたものらしい。
  碑の年月は「平成20年2月」だった。

  (2016年 1月11日(月)正午頃)

下若生子・麻那姫像と「ふるさとの碑」

  • 2016.04.23 Saturday
  • 07:15
平成28年4月16日(土)、福井県大野市旧西谷村、
中島、上笹又への旅。 
手前には、下若生子、上若生子、下笹又という
3つのダム関係の廃村がある。
若生子は「わかご」「わこうご」と2通りの読み方があるが、
「わかご」のほうがよく使われている。

大野市街からR.157で山へ向かい、
真名川ダム・麻那姫湖まで来ると、迎えてくれるのが麻那姫像だ。
「昔、真名川に身を投げて自らを竜神にささげ、
大干ばつから村人を救った」という伝説にちなむ像で、
サクラは盛りは過ぎていたが、きれいに咲く木もあった。

近くには下若生子の「ふるさとの碑」が建っているが、
碑の回りのサクラの花はあまり残っていなかった。



 画像1 : 麻那姫像
  平成12年春以来、複数回訪ねているので、なじみと言える。



 画像2 : 麻那姫湖
  ダム湖を覗き込むと、サクラが咲いていた。



 画像3 : 下若生子「ふるさとの碑」
  存在感がある碑の周囲は、公園のように整えられている。

  (2016年 4月16日(土)午前11時50分頃)

 

福井県大野市 上笹又・白山神社跡

  • 2016.04.20 Wednesday
  • 07:13
平成28年4月16日(土)、福井県大野市旧西谷村、
中島、上笹又への旅。 
中島の春日神社跡に続いて、上笹又の白山神社跡を訪ねた。 

神社跡に石垣などは見当たらなかったが、
見事にシダレザクラが咲いていた。
意外な展開は、旅の醍醐味だ。



 画像1 : 上笹又・白山神社跡(遠景) 
  5回目の訪問で、初めて発見した。



 画像2 : 上笹又・白山神社跡(近景) 
  サクラが咲いていなかったら、開けた空間でしかない。
  花の頃に訪ねることができて本当によかった。

  (2016年 1月11日(月)午後1時40分頃)
 

福井県の廃村に出かけました

  • 2016.04.19 Tuesday
  • 07:27
平成28年4月16日(土)、大阪の実家行きの途中下車で 
福井県の廃村に出かけました。 
訪ねたのは、旧西谷村の廃村 上笹又と中島で、5度目と6度目です。 
故吉田吉次さんのご子息(吉成さん)とご一緒しました。 

麻那姫湖青少年旅行村で昼食をとった後、 
「何か痕跡はないかな」という私の声に、吉田さんは
「受付の方は何か知っているかもしれない」と返してくれました。
そして、意外な展開で、中島、上笹又のお宮さん(神社)の跡を
見つけることができました。



 画像1: 中島の「萬霊之碑」
     改めて建立時期を確認すると、
     「昭和44年8月建立」、離村と同時期でした。 



 画像2: 中島・春日神社跡の石段 
     しっかりした石組に、
     大きな神社があったことがうかがえました。



 画像3: 中島・春日神社跡の境内
     境内はスギ林になっていましたが、
     ご本尊が祀られていた場所は高くなっていて、
     階段、石垣からはっきりとわかりました。

 (2016年4月16日(土)午後1時〜1時10分頃)

続・四徳学校跡の碑(離村関連記念碑)

  • 2016.04.15 Friday
  • 07:07
長野県中川村の廃村 四徳(しとく)に建つ
「心のふるさと 四徳学校跡」と刻まれた分校記念碑(離村記念関連碑)、
碑に刻まれた誌文をみて、いま一度振り返ってみたい。

===


明治六年九月一日第二十三区一小区四徳三楽学校として
開校し昭和三十六年六月未曾有の梅雨前線集中豪雨の
災害を受け部落全住民集団移住により閉校するまで
約一世紀の間四徳住民を育てた教学の場所である学校跡に
碑を建てこれを記念する

昭和四十九年五月二日
四徳学校同窓会建立

===

道沿いには「四徳学校跡の案内板」があり(平成11年建立)、
こちらのほうが読みやすい。
しかし、「集落の存在を後世に伝える」にあたって、
重要な役割を果たすのは、案内板ではなく碑であろう。

四徳の離村は昭和37年(54年前)。碑の建立は昭和49年(42年前)。
たとえば、二十二世紀になったとき、碑は建っているだろうか。
そしてそのような存在になっているのだろうか。



 画像1: 四徳学校跡の碑(その1)
  これほどスケールの大きい学校跡の碑を
  私は知らない。



 画像2: 四徳学校跡の碑(その2)
  誌文はこんな感じで刻まれている。

  (2007年5月13日(日)正午頃)

 

四徳学校跡の碑(離村関連記念碑)

  • 2016.04.13 Wednesday
  • 07:02
平成17年から20年にかけて、私は長野県の21か所の学校があった廃村を訪ねたが、
離村記念碑を8か所で見かけている。
これに対して、分校記念碑は10か所(看板、木柱を含む)で見かけている。
廃村に建つ分校記念碑は、「離村関連記念碑」と捉えることができる。
両方あった3か所を勘案すると、
8+10−3=15か所に離村関連記念碑が建っていることになる(71%)。

平成27年、秋田県の廃村調査で見かけた離村記念関連碑(分校記念碑を含む)は
66か所中18か所(27%)。
選定条件はやや異なるが、ふたつを比べると、
秋田県の離村記念関連碑は、長野県よりも少ないと言える。

===

廃村に建つ分校記念碑の例として、中川村四徳(しとく)の碑を紹介します。
四徳は、伊那谷三六災害(昭和36年6月の集中豪雨による広域災害)で
壊滅的な被害を受け、昭和37年、全戸(84戸)が集団移転。
四徳にあった中川東小学校四徳分校はへき地等級1級,児童数71名(S.34),
明治6年開校、昭和38年閉校です。



 画像1: 四徳学校跡の案内板
  道沿いに学校の沿革が記された案内板が建っていた(平成11年建立)。



 画像2: 四徳学校跡の碑(その1)
  碑のそばの広い平地の中には石と土が盛られており、
  その上に大きな碑が建っていた。



 画像3: 四徳学校跡の碑(その2)
  盛り土の上に建つ碑の表面には「心のふるさと 四徳学校跡」と刻まれた
  (昭和46年建立)。

  (2007年5月13日(日)正午頃)
 

屋布の集落移転記念碑

  • 2016.04.11 Monday
  • 06:47
浦和ではサクラが散って、廃村探索のベストシーズンとなってきました(^_^)

同じ廃村へ出かけたとしても、訪ねた季節や天候によって印象が大きく異なることがあります。
昨年6月と11月に訪ねた秋田県上小阿仁村の廃村 屋布(やしき)の「集落移転記念碑」は、そのよい例なので、ふたつ並べて紹介します。



 画像1: 6月の屋布の集落移転記念碑
  天候は快晴。陽が当たる新緑に囲まれて、碑は明るい感じに見えます。

  (2015年6月1日(月)午後3時頃)



 画像2: 11月の屋布の集落移転記念碑
  天候は小雨交じりの曇。枯れ草に囲まれて、碑は沈んだ感じに見えます。

  (2015年11月2日(月)午後12時50分頃)
 

祖谷口駅

  • 2016.04.09 Saturday
  • 06:51
平成28年1月11日(月)、徳島県三好市池田町 
農山村集落 山風呂(やまぶろ)への旅。
阿波池田までの帰り道、祖谷口(いやぐち)という小さな駅に立ち寄った。

ローカル線のローカル駅は、なかなか使う機会がない。
3月の鳥取でも、特急のとんぼ帰りだった。
次の旅では、どこかのローカル線に乗る計画を立てよう。



 画像1 : 祖谷口駅の入口(その1)
      「祝!開業80年」の横断幕があった



 画像2 : 祖谷口駅の入口(その2)
      時刻表は、上り9本、下り11本とバラツキがある。



 画像3 : 祖谷口駅のホーム
      午後2時台、3時台は、上下とも1本も便がない。
      単線一面のホームに人影はなかった。

  (2016年 1月11日(月)午後2時35分頃)

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