石川県旧山中町 我谷水没記念碑

  • 2012.07.28 Saturday
  • 10:07

 2012年6月25日(月) 午後1時00分


石川県旧山中町の廃校廃村めぐり、
大内峠からは我谷(わがたに)ダムまで戻り、九谷ダムを目指して県道に入りました。
少し走ると、茂みの中に「水没記念碑」という碑が見当たりました。



我谷ダムの竣工は昭和40年。ダム湖(富士写湖)には、旧我谷町、我谷小学校が
沈んでいるのですが、我谷町はダムの下方に移転して存続しているので、
我谷は「廃村千選」には入れませんでした。



碑の裏側には、我谷町31名、枯渕(かれぶち)町23名の移転者の名前が刻まれていました。
最初に出てくる「浅山浅吉さん」は、インパクトがある名前です。

北海道夕張市 鹿島東小学校跡

  • 2012.07.25 Wednesday
  • 19:26

2012年5月3日(木・祝) 午前7時20分頃


GWの北海道4days 2日目、
鹿島千年町のメインストリートを歩ききり、道なりに曲がって坂を下ると
たどり着くのが、鹿島東小学校跡です。



目立つ人工物としては、消火栓がひとつあるだけでした。
赤さがひときわ目立ちます。



とにかくとても広いです。
最盛期(S.34)、児童数1,383名の大きな学校だったということが実感できます。
とても小さく写っているのは、同行したウインデーさんです。



ウインデーさんに、記念写真を撮っていただきました。
開放感が気に入ったので、2012年6月半ばから11月まで、facebookのトップ画像に使いました。

石川県旧山中町 大内峠の2つの看板

  • 2012.07.23 Monday
  • 06:51

 2012年6月25日(月) 午後0時50分


石川県旧山中町の廃校廃村めぐり、
白山神社からは、クルマに乗って県境の大内峠を目指しました。
最上部は短いトンネルになっているのですが、
峠といってもよい雰囲気があります。



もっと距離があるイメージだったのですが、
大内村跡から1分ほどでトンネルを越えて福井県に着きました
「丸岡町」の看板は、小学校の頃よく見た古典的なものでした。
ちなみに丸岡町は、平成の大合併で坂井市になりました。
福井県側は、峠から集落まではかなりの距離がありそうです。



折り返して、再びトンネルを越えて石川県に戻ると、
カントリーサインが入った「山中町」の看板が構えていました。
山中町も、平成の大合併で加賀市になりました。
旧道なので、そのままになっているのですね。
そのまま残っていてほしい、2つの看板です。

石川県旧山中町 大内白山神社

  • 2012.07.22 Sunday
  • 10:53

2012年6月25日(月) 午後0時45分


石川県旧山中町の廃校廃村めぐり、
大内の離村記念碑の奥、少し高くなった場所には、
神社(白山神社)がありました。
往時のままに残る、唯一の建物だと思います。



神社から離村記念碑を見下ろすと、碑が立っているスペースは
どうやらそのまま小学校跡らしいことがわかりました。
地形図でも鳥居マークと文マークは隣り合っているので
間違いなさそうです。



風谷でも神社と学校は隣り合っていたわけですが、
地形図では鳥居マークと文マークはやや離れて記されていたので、
学校跡の画像を撮り損ねてしまい、少し残念です。

石川県旧山中町 大内「想起」の碑

  • 2012.07.21 Saturday
  • 09:35

2012年6月25日(月) 午後0時40分


石川県旧山中町の廃校廃村めぐり、
大内の離村記念碑の反対側には階段がついた盛り土があって、
階段の先には「大内村址」という看板と
「想起」と記された大きな石碑が鎮座していました。



どうも、石碑が好きな土地柄のようです。
私も石碑は好きなので、写真を撮って碑文を読みました。



  由 緒
 大内村は、江戸時代永く 大聖寺藩の持領
に属し、御番所と呼ぶ関所が置かれ、加賀と
越前の国を結ぶ、要衝の地であった。
 乱世の時、法難を逃れて蓮如上人はここの
村人に匿われ、その御礼として、六字の名号を
遺された。
 また、戦国時代には、幾多の武将が奔走し
一向衆徒もこの地を行き交った。
 大正昭和の往時には、三十一戸、百八拾名の
村人が焼畑、炭焼き、ロクロ木地挽きなどを
業として暮した土地である。
 さて、この川の上流五百米に、オワン池と
称する滝があり、伝説によれば、この滝に
向かって椀を貸してほしいと請えば、滝壺から
椀が流れ出て、村人はまつりごとに重宝
したという。この話、山中漆器の起源と
関わりが有るやも知れぬ。
 この度、国道改修工事に伴う
古の村落跡地の埋立を承知し、
公園として後世に残すに当り、
往昔を偲びつつ、万感の想いの中
ここに碑を建立する。

 平成十五年十一月
          大内会



国道改修工事とは、平成16年春に開通した
丸岡山中温泉トンネルに関連するもののようです。


平成15〜16年というと、21世紀になってからのこと。
改修工事前の村跡の様子を、見てみたかったところです。

石川県旧山中町 大内離村記念碑

  • 2012.07.20 Friday
  • 06:57

 2012年6月25日(月) 午後0時35分


石川県旧山中町の廃校廃村めぐり、風谷を後にして、
次に訪ねたのは、福井県境に近い大内(おおうち)です。



R.364の丸岡山中温泉トンネル入口の左手には
「大内村跡 富士写ヶ岳登山口 ふるさと公園」という看板があるので
訪ねるのはとても簡単です。



村跡には、
「今 大内の者すべて
  この村を去る
 心だけをこの地に残して」
と記された、離村記念碑が立っていました。



  碑 文
 誰れも去りたくてこの大内
を去ったのではない。今この
地に立つと祖先の魂の悲嘆を
大内の者達は確かに聞く。終
戦後本来の文化の大切さを忘
れ高度経済成長を目論み文明
を求めること急な国の施策に
押し流され、小さな村が一つ
づつ消えて行った、
 大内もその村の一つに過ぎ
ない。この地から去り難い心
と、いつか誰かが移り住むこ
とを願い、茲に碑を建てる。

 昭和五十八年四月初旬
    大内出身者一同


改めて見直すと、
 「終戦後本来の文化の大切さを忘れ」

 「いつか誰かが移り住むことを願い」
は、
ちょっと気になる言葉です。

 

北海道夕張市 鹿島キリ助

  • 2012.07.19 Thursday
  • 06:59

2012年5月3日(木・祝) 午前7時頃


GWの北海道4days 2日目、
鹿島小学校跡からは、比較的往時の雰囲気が残っているという
鹿島千年町のほうへ歩きました。

 

鹿島キリ助は、旧R.452沿い、往時から千年町の入口に立つキリンのオブジェで、
胴体はドラム缶でできています。



枠は往時からのものですが、「キリ助」という看板は少し前につくられたばかりだそうです。
長い間失われていたという頭と首も、同時期に再生したとのことです。

北海道夕張市 鹿島小学校跡

  • 2012.07.17 Tuesday
  • 23:11

2012年5月3日(木・祝) 午前6時40分頃


GWの北海道4days 2日目、この日の探索予定は、前日に引き続き夕張市内のみ。
まずは、「集落の記憶」でも取り上げている鹿島へと出かけました。


早朝の鹿島小学校跡には、雪の重みで倒れた枯れ草と、わずかばかりの残雪があるだけで、
草はほとんど生えていなくて、整地されたように広々とした空間がありました。



画像は、鹿島小学校跡に立つ、ふる里大夕張の碑、閉校記念碑とイタヤカエデの木です。

碑は閉校の年(平成10年)、立てられたものです。
イタヤカエデの木は昔からのもので、往時の運動会の写真でも確認できます。

石川県旧山中町 風谷番所址石碑

  • 2012.07.13 Friday
  • 08:44

2012年6月25日(月) 午後0時10分


石川県旧山中町の廃校廃村 風谷(かぜたに)には、
「風谷番所址」と記された、立派な記念碑が立っていました。



碑の左横には碑文、右横には住宅配置図がある本格的なもので、
人の気配のない集落のはずれで、存在感を示していました。



  碑 文
 風谷村は、江戸時代永く大聖寺藩の所領に属し、
この地に御番所が置かれた。(村井家跡)古代から
近代にかけて、加賀と越前の国境を結ぶ交通の要地
として風谷が存在した。また、藩政時代の刑場が
東野家跡にあったと伝承している。
 風谷の村名の由来は、風の強い尾根に峠があった
ことから生まれたと伝えられている。寿永二年(1
183年)木曽義仲群が平家と野戦いで風谷峠を通
り、天文三年(1534年)に一揆勢、朝倉勢の通
路であったと「朝倉記」に記している。
 風谷の正確な成立年代は分からないが大聖寺藩が
この地において銀の採掘、荒砥石を切り出したとの
記録があり、また新田開発により元禄十四年当時、
二十一石の村高を八十八石と他村に類例を見ない増
加を成し遂げた。藩政時代の大聖寺藩は風谷の胆煎
を奥山方筆頭胆煎として任命している。
 風谷の最盛期、明治二十二年には戸数三十五戸、
村人百八十六名が焼き畑、炭焼きなどをして暮らし
ていた。戦後(1945年)、時代の推移とともに
人口が減り、昭和三十年頃から急激な過疎になって
今は、往時の面影はないが、現在住者、離村者とも
どもに、ふるさと風谷を後世にとどめたいと、万感
の想いを込めてここに碑を建立する。
  平成十七年九月吉日



住宅配置図を改めて見ると、分教場は三差路よりも村の入り口(八幡神社)の
方向に記されています。

訪ねたときははっきりわからなかったのですが、
後日平成2年の山中町の住宅地図を見ると、学校跡は八幡神社の石垣の下で、
今は駐車スペースになっている場所でした。

石川県旧山中町 風谷三差路

  • 2012.07.12 Thursday
  • 06:52

2012年6月25日(月) 午前11時55分


石川県旧山中町、全7ヶ所の廃校廃村めぐり、
風谷 八幡神社にお参りしてから、風谷集落中心部(三差路)で
「学校跡はどこだろう」と考えました。


2009年の住宅地図には、名前の入った家が2軒ありますが、
家々に人の姿はありませんでした。



1968年の地形図の文マークは、神社の少し上手、三差路付近に
記されているのですが、
「このあたりかも」と思う場所に建っている家は
学校跡っぽくはありませんでした。



「風ノ谷峠 風谷番所址石碑」という新しい看板があったので、
まず石碑に向かう道と反対の道を、行けるところまで行ってから、
次に石碑の方向の道をたどりました。

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