2012年6月25日(月) 午後0時10分
石川県旧山中町の廃校廃村 風谷(かぜたに)には、
「風谷番所址」と記された、立派な記念碑が立っていました。
碑の左横には碑文、右横には住宅配置図がある本格的なもので、
人の気配のない集落のはずれで、存在感を示していました。
碑 文
風谷村は、江戸時代永く大聖寺藩の所領に属し、
この地に御番所が置かれた。(村井家跡)古代から
近代にかけて、加賀と越前の国境を結ぶ交通の要地
として風谷が存在した。また、藩政時代の刑場が
東野家跡にあったと伝承している。
風谷の村名の由来は、風の強い尾根に峠があった
ことから生まれたと伝えられている。寿永二年(1
183年)木曽義仲群が平家と野戦いで風谷峠を通
り、天文三年(1534年)に一揆勢、朝倉勢の通
路であったと「朝倉記」に記している。
風谷の正確な成立年代は分からないが大聖寺藩が
この地において銀の採掘、荒砥石を切り出したとの
記録があり、また新田開発により元禄十四年当時、
二十一石の村高を八十八石と他村に類例を見ない増
加を成し遂げた。藩政時代の大聖寺藩は風谷の胆煎
を奥山方筆頭胆煎として任命している。
風谷の最盛期、明治二十二年には戸数三十五戸、
村人百八十六名が焼き畑、炭焼きなどをして暮らし
ていた。戦後(1945年)、時代の推移とともに
人口が減り、昭和三十年頃から急激な過疎になって
今は、往時の面影はないが、現在住者、離村者とも
どもに、ふるさと風谷を後世にとどめたいと、万感
の想いを込めてここに碑を建立する。
平成十七年九月吉日
住宅配置図を改めて見ると、分教場は三差路よりも村の入り口(八幡神社)の
方向に記されています。
訪ねたときははっきりわからなかったのですが、
後日平成2年の山中町の住宅地図を見ると、学校跡は八幡神社の石垣の下で、
今は駐車スペースになっている場所でした。