おけと湖畔には「旭入植地水没記念碑」という碑があるという。
田中さんは「ダム堤体のそばにある」と話していたので、「これは見つけなければ」と思いながら
戻り道をゆっくりたどっていると、湖畔の広場の奥に碑を見つけることができた。
碑には「大正9年に森林鉄道敷設、大正12年に営林署の労務者が開墾と造林事業を目的に入植」
と刻まれていたが、離村時期はないので、従来通り閉校年の頃と考えることにした。
画像1 : 常上旭・学校跡1?手前、閉ざされたゲートが現れた
この旅で閉ざされたゲートに出会ったのは、これが唯一だった。
画像2 : おけと湖畔に「旭入植地水没記念碑」を見つける
画像3 : 「旭入植地水没記念碑」を裏側から見る
(2024年2月13日(火)午前7時5分〜7時20分頃)
ダム湖(おけと湖)は真っ白で、人の気配は全くない。
湖畔の道を進んでいると、3匹のエゾシカが道を横切り、斜面を上がっていった。
野生動物との遭遇は、続くときは続くが無いときは無いが続く、
3泊4日の旅でエゾシカと出会ったのはこのときだけだった。
画像1 : 常上旭・ダム堤体からおけと湖を望む
画像2 : 常上旭・エゾシカと遭遇する(1)
画像3 : 常上旭・エゾシカと遭遇する(2)
(2024年2月13日(火)午前6時45分〜6時55分頃)
画像1 : 置戸市街のイルミネーション
右側の足元にはキャンドルライトがある。
画像2 : 置戸市街のイルミネーション(2)
左は写真店の明かりで、七五三の写真が見られた。
画像3 : 置戸市街のイルミネーション(3)
少しぼやけているのだが、明るく感じられるものになった。
(2024年2月12日(月)午後5時45分〜7時45分頃)
画像1 : 留辺蘂駅・ホームから駅舎を望む
画像2 : 留辺蘂駅・屋根が付いた島式ホーム
画像3 : 留辺蘂駅・駅名標
(2024年2月12日(月)午後3時35分〜3時45分頃)
画像1 : 西留辺蘂駅・踏切から駅を望む
この先3.5?に、旧金華駅(平成28年廃止)がある。
画像2 : 西留辺蘂駅・ホームへのスロープ付近
駅舎はなく、スロープ付近に駅名標示はない。
画像3 : 西留辺蘂駅・駅名標
通過していくオホーツクが一緒に収まった。
(2024年2月12日(月)午後3時20分頃)
上金華小学校は、へき地等級2級、児童数10名(S.34)、昭和27年開校、昭和38年閉校。
分岐点から1?弱の枝道沿いに、学校跡の碑が見当たった。
分岐点には「愛媛団体入植之地」の碑と馬頭観音碑が並んで建っており、
ここで名寄まで帰る田中さんを見送った。
入植之地の碑は「大正5年入植、昭和44年までに全戸離農」と刻んでいた。
画像1 : 上金華・枝道沿いに学校跡の碑が建つ
画像2 : 上金華の枝道、学校碑の前をSWIFTが走る
画像3 : 国道と枝道の分岐点、愛媛団体入植地碑と馬頭観音碑が並んで建つ
(2024年2月12日(月)午後2時15分〜3時頃)
駅廃止から8年経った駅前市街に残る現住家屋は3戸(R.6)。
半壊した家屋が寂れ感を強くしていた。
画像1 : 金華駅跡・信号所として駅舎が残る
画像2 : 金華駅前市街、寂れ感が強く漂っている
画像3 : 半壊した家屋が寂れ感を強くする
画像4 : おそらく駅舎は、廃止前とあまり変わらないのであろう
(2024年2月12日(月)午後2時〜2時10分頃)
富士見小学校は、へき地等級1級、児童数49名(S.34)、昭和4年開校、昭和39年閉校。
五万地形図(北見富士、S.33)を見ると、文マークは国道沿い、無加川とパオマナイ沢の合流点のそばに記されている。
しかし、心当たりの場所には上武華駅逓跡の碑が建つだけで、そこにあるはずの富士見小学校跡の碑は見つからなかった。
学校碑の有無については、無積雪期に再訪したときの課題にしたい。
画像1 : 富士見・上武華駅逓跡の碑が建つ
画像2 : 北見富士(標高1291m)と上武華駅逓跡の碑
(2024年2月12日(月)12時25分頃)
『秋田・廃村の記録』(初版)が2016年10月発行、
『撤退の農村計画』が2010年8月発行ですから、
とてもゆっくりしたペースでの新刊ですが、
しっかりと積み上げてきたものの強さが感じられる内容になっています。
林直樹さんとの付合いは、2014年8月、つくばの国立環境研究所で行った
講演「廃村と過疎の風景2014」のときからで、
かれこれ10年経っているのですね。
10年後に京都のフォーラムでご一緒するというのも、縁を感じるところです。
昨日発売の「Wedge」2024年4月号に
撤退戦略についてのまとまった記事が載っています。
『撤退と再興の農村戦略』本編ともども、
興味・関心のある方、是非お手にとってお読みください。
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画像1 : 富士見大町・「イトムカ鉱山発祥之地」の碑が建つ
画像2 : 日待ちして、改めて「イトムカ鉱山発祥之地」の碑を撮る
画像3 : 積雪の中,「恵泉中学校跡」碑の頭が見つかった
(2024年2月12日(月)12時5分頃)
画像1 : 国道273号、三国峠(標高1139m)に初めてたどり着く
(2024年2月12日(月)午前10時55分頃)
画像2 : 国道273号、三国大橋(標高1020m)をSWIFTが駆け抜ける
(同 午前11時頃)
画像3 : 国道39号、石北峠(標高1050m)に初めてたどり着く
(同 午前11時45分頃)
三股小学校は、へき地等級2級、児童数120名(S.34)、昭和19年開校、昭和51年閉校。
五万地形図(石狩岳、S.46)を見ると、駅のそばには多くの家々があって、
文マークは東側の高台に記されている。
季節柄、学校跡は遠目で見るだけにした。
現在(R.6)、三股には現住家屋が2戸あって、1戸は三股山荘、もう1戸はかつての郵便局局舎だという。
バスは北海道拓殖バスのノースライナー(旭川−帯広)で、1日1往復だった。
画像1 : 十勝三股バス停と、郵便局局舎だったという現住家屋
画像2 : 三股山荘、敷地の一角に十勝三股駅名標がある
画像3 : 三股山荘の駐車場から三国山(標高1541m)を望む
(2024年2月12日(月)午前10時20分〜10時30分頃)
黒石平にあった黒石小学校は、へき地等級1級、児童数34名(S.34)、
昭和28年開校、昭和45年閉校。
バス停そばの駐車場から長靴を履いて雪原へと向かい、
「防雪林を目指せば大丈夫」という田中さんに続いていくと、
林の縁に半ば雪に埋もれた学校跡の碑が見つかった。
画像1 : 黒石平バス停そばの駐車場から、電力所前仮乗降場跡方向に歩く
画像2 : 小学校跡を目指し、田中さんに続いて雪原を歩く
画像3 : 黒石小学校跡、「小学校跡」の碑が建つ
(2024年2月12日(月)午前9時10分〜9時40分頃)
旭丘小学校は、へき地等級5級、児童数21名(S.34)、大正15年開校、昭和46年閉校。
閉校後50年超、校舎は残っているが周囲には雑木がたくさん生えている。
高台には5戸の農家があるが、道道沿いには校舎以外の建物は見られなかった。
画像1 : 旭ヶ丘・学校跡近辺の道道の風景
画像2 : 雑木に埋もれながらも校舎が残る
画像3 : 高台への分岐、旭ヶ丘案内図が建つ
(2024年2月12日(月)午前8時40分〜8時45分頃)