新潟県見附市 栃窪(その2)

  • 2019.11.15 Friday
  • 06:10

令和元年10月上旬、新潟県見附市 栃窪(とちくぼ)の廃村探索、
上北谷小学校栃窪分校は、へき地等級1級、児童数42名(S.34)、明治40年開校、昭和52年閉校。
分校跡を目指して源昌寺跡から歩いて坂を上ると、鳥居と寺のような社殿をもつ神社(白山神社)に到着し、分校跡はすぐそばの細長い平地だった。
夕闇迫る中 平地を歩いたが、分校に係わる痕跡を見つけることはできなかった。

 

集落西端の「山の家」に立ち寄った後、栃窪を後にしたのは夕方5時半。
外灯が灯る集落跡には、少なくても春夏秋には暮らしがある感じがした。

 

 

 画像1: 栃窪・寺のような社殿をもつ白山神社

 

 

 画像2: 白山神社の社殿と栃窪分校跡の平地

 

 

 画像3: 庄屋の古民家を使った見附市「山の家」

 

 

 画像4: 外灯が灯った集落東端の道

 

  (2019年10月5日(土)午後5時10分〜5時35分頃)
 

新潟県見附市 栃窪(その1)

  • 2019.11.14 Thursday
  • 07:16

令和元年10月上旬、新潟県の廃村探索、
鉢伏からは、この日最後の目標、栃窪(とちくぼ)へと向かった。
鉢伏と同じ見附市内なのだが、クルマだと旧栃尾市内を通らないと行くことはできない。県道からの狭い枝道を走って、栃窪に到着したのは夕方4時50分頃。
暗くなり始めていた集落跡には人影があり、地域の方(Tさん)と話をすることができた。

 

栃窪集落の規模は45戸(大正期)、離村は昭和63年頃(寺が廃止された年)。
栃窪には市営の「山の家」があるので「これが分校跡だ」と思っていたのだが、Tさんによると山の家は庄屋の家を使ったもので「分校跡は神社の横にあり、神社まではクルマで行ける」とのこと。

 

心当たりの道を進んだが、頼りなくて自信がもてない。三差路のそばに野菜を洗う地域の方(Kさん)の姿があったので、話をうかがうと、「神社は少し先、坂を上ればある」とのこと。
三差路角の平地には碑があって、確認すると源昌寺という寺跡を示す句碑だった。
Kさんは、「栃窪では県が地域外の若者が参加する農村保全の事業を進めていて、集落に活気が戻って来ている」と話された。

 

 

 画像1: 栃窪・地域の方々の姿があった集落跡

 

 

 画像2: 三差路角の平地、源昌寺跡

 

 

 画像3: 源昌寺跡に建つ句碑

     「村は過疎 寺は廃寺や 秋淋し」と刻まれている

 

 

 画像4: 源昌寺跡に建つ石井翠山句碑
     辞世の句「寺の死に水 村の死に水を とりて散りたる山桜」が刻まれていた

 

  (2019年10月5日(土)午後4時55分〜5時5分頃)
 

新潟県見附市 鉢伏(その2)

  • 2019.11.04 Monday
  • 06:52

令和元年10月上旬、新潟県見附市 鉢伏の廃村探索、
見附小学校鉢伏分校は、へき地等級1級、児童数9名(S.34)、昭和26年開校、昭和40年閉校。
分校跡がどこかはわからなかったが、小山の上に神社を見つけることができた。
離村時期は、分校閉校の3年後(昭和43年頃)と推測した。

 

30分ほどの探索の間、鉢伏で誰かに会うことはなかった。
お会いできていたら、分校跡の確認をしたかったところだ。
戻り道は最寄り集落 堀溝へと続く往時からの道を選んだが、草生した箇所があるなど、あまり使われていなさそうだった。

 

 

 画像1: 鉢伏・地形図には載っていない神社を見つける

 

 

 画像2: 小山の上の神社の祠

 

 

 画像3: 神社対面の「学校跡ではないか」と思った敷地に建つ家屋

 

  (2019年10月5日(土)午後4時〜4時15分頃)

 

 

 画像4: 鉢伏の地形図 「学校跡ではないか」と思った敷地は +印の地点

新潟県見附市 鉢伏(その1)

  • 2019.11.03 Sunday
  • 05:13

令和元年10月上旬、新潟県の廃村探索、
吉ケ平からは、水ノ木峠を越えて旧栃尾市北部を通り、見附市の戦後開拓の廃村 鉢伏(はちぶせ)を目指した。
情報の薄い集落跡で、五万地形図(三条、S.46)には何も載っていないが、業界地図(S.27)に10戸と記されており、癖がある道のカーブから場所を特定することはできている。


見附市街の東側、運動公園のそばから広域林道を使って向かうと、林道沿いに「鉢伏開拓五十周年記念碑」が見つかった。
クルマを停めて探索すると、集落跡には家々が建ち、畑や栗林もあったが、人の気配はない。
「開拓五十周年記念碑」の裏面には、「昭和21年 国営事業により入植 現在に至る 平成8年11月建立」と刻まれており、離村後も家屋を管理しながら通いの耕作が続いているのだろう。

 

 

 画像1: 鉢伏の手前4辧Α峽Ы佶彙躇奸廚侶納┐ある林道入口

 

 

 画像2: 林道沿いに「鉢伏開拓五十周年記念碑」が建つ

 

 

 画像3: 人の気配はないが、整った家々が建つ

 

  (2019年10月5日(土)午後3時45分〜4時頃)
 

新潟県三条市(旧下田村) 吉ケ平

  • 2019.11.01 Friday
  • 06:43

令和元年10月上旬、新潟県の廃村探索、
大谷ダムからは国道289号を戻り、守門川沿いの吉ケ平(よしがひら)を目指した。
かつて新潟と福島を結んだ街道 八十里越沿いにあり、集落の規模は26戸(S.35)、離村は昭和45年。
集落跡は整備され、「吉ヶ平自然体感の郷」となっている。

県道は吉ケ平の手前5劼離押璽箸ら急に頼りなくなったが、対向車が気にしながらゆっくりと進むと、やがて視界が開けて、新しい山荘に迎えられた。

 

森町小学校(のち早水小学校)吉ケ平分校は、へき地等級3級、児童数26名(S.34)、明治20年開校、昭和45年休校、同48年閉校。
分校跡校舎は、長い間吉ケ平山荘として再利用されたが、平成26年頃、新しい山荘に立て替えられた。
門柱と校舎へ下る階段があるので、「ここが分校跡」と簡単に特定できる。自然体感の郷には、釣りの方やオートキャンプの方など、まずまずの利用者があった。

分校跡のすぐそばの丘には炭焼き窯があって、話をうかがうと集落出身の方々が「炭を焼いて出荷している」とのことだった。
窯の脇に「城ノ腰の清水」という湧水があったので、ペットボトルに汲んだ。
標柱に「飲用の際には煮沸することをお勧めします」と記されているのは、今風なのだろう。

 

 

 画像1: 吉ケ平の手前5辧Ω道は急に頼りなくなる

 

 

 画像2: 吉ケ平分校跡は「自然体感の郷」として活用されている

 

 

 画像3: 分校跡そばの丘の上には炭焼き窯があった

 

  (2019年10月5日(土)午後2時10分〜2時45分頃)
 

新潟県三条市(旧下田村) 大江

  • 2019.10.31 Thursday
  • 07:04

令和元年10月上旬、新潟県の廃村探索、
上杉川からは、国道290号から県道、国道289号などをつなぎ、三条市(旧下田村)大江(おおえ)を目指した。
手前の集落 大谷とともに、大谷ダムの建設のため昭和54年に離村した。
業界地図(S.35)に記された集落の戸数は19戸。地図には「大江鉱山」が記されており、小規模な鉱山があったことが想像できる。

 

森町小学校(のち早水小学校)大江冬季分校は、へき地等級3級、児童数15名(S.34)、大正10年開校、昭和54年閉校。
集落跡は五十嵐川に架かる大江大橋の手前の平地と思われるが、整地されており、気配は感じられなかった。
国道沿いには神社跡入口を示す石柱が建っており、階段を登った神社跡地にも石柱が建っていた。
国道は集落跡の先500mで通行止になっており、ダム堤体に近い湖畔に建つ「望郷の地 大江 大谷」の碑は帰り道に見に行った。

 

「望郷の地」碑のそば、桂沢橋付近にはサルの群れがいて、欄干にはよく太った親猿が堂々と座っていた。
サル達の動きは鈍かったが、カメラを向けるとのそりと逃げていった。
この旅で訪ねる廃村は比較的市街の近くなので熊鈴は持って行かなかったのだが、「熊出没注意」の掲示板は各所で見られた。

 

 

 画像1: 大江・集落跡に気配は感じられなかった

 

 

 画像2: 「大江神明社旧参道」と刻まれた石柱が建つ

 

 

 画像3: ダム湖畔に建つ「望郷の地」の碑

 

  (2019年10月5日(土)午後1時〜1時45分頃)
 

上杉川 再訪

  • 2019.10.30 Wednesday
  • 06:11

令和元年10月上旬、新潟県の廃村探索、
五泉市(旧村松町)上杉川(かみすぎかわ)は7年ぶりの再訪。
前回は五泉駅から自転車を借りて出かけたが、今回はレンタカー。
カーナビをしかけたら、分校跡の施設(上杉川青少年自然の家)の表示がしっかり残っていた。
おかげで、前回わからなかった分校跡の特定は簡単にできた。

 

川内小学校上杉川分校は、へき地等級1級、児童数71名(S.34)、明治25年開校、昭和49年閉校。
集落の規模は39戸210名(S.40)、離村は昭和53年。
分校跡では、ドラム缶で火を起こしている方(Yさん)がいて、話をうかがうと、
Yさんは上杉川出身で東京で48年暮らされた後新潟に戻られて、
「3年前に荒れた状態だったものを整えた」とのこと。
分校跡から赤城神社跡まで歩いて往復し、地蔵堂の脇の坂を下ると、広い墓地にたどり着いた。

 

 

 画像1: 上杉川分校跡は地域の方の手で整えられた

 

 

 画像2: 7年前にも訪ねた赤城神社跡

 

 

 画像3: 地蔵堂の外側にもお地蔵さんがいた


 

 画像4: 広い墓地が、かつての集落の規模を物語る

 

  (2019年10月5日(土)午前10時〜11時頃)
 

菅沼 再訪(3回目)

  • 2019.10.14 Monday
  • 06:22

令和元年10月上旬、新潟県の廃村探索2日目、
青海川駅からは直江津駅でえちごトキメキ鉄道へと乗り継いで、糸魚川駅で途中下車した。
幸い雨は小降りになっており、ガソリンスタンドでクルマを借りた。

 

菅沼は平成19年8月、平成30年4月以来3度目の訪問。
糸魚川は『廃村百選』の「集落の記憶」の取材で平成31年4月に訪ねているので半年ぶり。
業界地図(S.32)に記された菅沼集落の戸数は15戸。離村時期は昭和50年頃。
取材で気になっていた「景観を守るため耕している」という水田は集落に入ってすぐの場所にあり、すでに刈入れがなされていた。

 

今井小学校菅沼分校はへき地等級2級、児童数7名(S.34)、大正4年開校、昭和49年閉校。
木造校舎の左にある高い樹はポプラで、「皇太子ご成婚を祝って校庭に植えられた」ことが案内板からわかる。
1年半前に訪ねたときには5名の地域の方々と出会った菅沼だが、この日は誰にも会わなかった。

 

 

 画像1: 菅沼・田んぼの刈入れは終わっていた

 

 

 画像2: 分校跡木造校舎と校庭に立つポプラの樹 

 

 

 画像3: 聖域という雰囲気がある七社神明宮

 

  (2019年10月6日(日)午前10時15分〜10時45分頃)
 

新潟県の廃村に行ってきました

  • 2019.10.08 Tuesday
  • 06:59

令和元年10月上旬、新潟県の廃村に行ってきました。
訪ねた廃村は、五泉市上杉川、三条市大江、吉ケ平、見附市鉢伏、栃窪、糸魚川市菅沼の6か所です(新規4か所、再訪2か所)。

 

新規4か所を訪ねたことで、新潟県・中越49か所の廃校廃村、めでたく完訪となりました(^_^)。
再訪2か所は下越と上越、ともに来春発行予定の市販本『廃村百選』(仮タイトル)に備えて訪ねました。

比較的 町に近い廃村が多く、出会いの多い探索でした。
耕作は、6か所中4か所で確認できました。

 

 

 画像1: 上杉川・分校跡
     7年前に訪ねたとき、わからなかった分校跡は簡単に見つかった。
     出会った出身の方に話をうかがうと、
     3年前、東京から戻って来た時、草ぼうぼうだった校地を市から購入して
     整地して農作業などをしながら過ごせる場所にしたとのこと。
     整地したばかりの分校跡の様子が、「村影弥太郎の集落紀行」Webに載っている。

 

  (2019年10月5日(土)午前10時15分頃)

 

 
 画像2: 吉ケ平・分校跡
     分校跡は野外活動の拠点として活用されている。
     校門の反対側、丘の上には炭焼き窯があって、話をうかがったところ、出身の方で、
     炭は商品として出荷しているとのこと。
     吉ケ平山荘の建物はまだ新しく、5年前には旧分校の木造校舎が使われていた。

 

  (同 午後2時30分頃)

 

 

 画像3: 菅沼・分校跡
     11年前、1年前に続いて3度目の訪問。
     木造校舎の左にある高い樹はポプラで、

     「皇太子ご成婚を祝って校庭に植えられた」ことが案内板からわかる。
     水田の刈入れはされた後で、現地では誰にも会わなかった。

 

  (2019年10月6日(日)午前10時30分頃)

 

新潟県柏崎市(旧高柳町) 後谷(その3)

  • 2018.07.21 Saturday
  • 06:49

平成30年GW後半、新潟県中越 廃校廃村の旅、
後谷(うしろだに)集落跡は見通しのよい谷間にあって、中心部には作業小屋が建っていた。
畑もあったが、誰かに出会うことはなかった。
集落跡では神社跡の場所はわからなかったが、なぜかヘルメットをかぶった仏様と出会った。

 

集落跡から県道の峠付近を通るクルマがわずかに見えるので、
帰り道に確認すると、点のような作業小屋と栃ケ原ダム湖を同時に見ることができた。

 

旧高柳町では、昭和46年から47年にかけてへき地小集落について集落移転事業を進めた。

「高柳町史」には、白倉では11戸48人、中後では13戸29人が、後谷では9戸41人が転出の対象になったと記されている。

今は磯野辺が5戸、板畑が7戸、桐山が9戸しか残っていない。

 

桐山集落開発センターのそばには、
「人と自然と芸術が共に息づく郷」という案内板が建っていた。
十日町市と津南町は「越後妻有 大地の芸術祭」を平成12年から3年に1度開催し、
一定の成果を得ており、平成30年バージョンは7回目となる。
私は桐山や竹之高地、山野田の様子をみて、
「自然、芸術を通じた人々の交流は、今後の廃村、過疎集落において重要な動きになるのではないか」と思った。

 

 

 画像1: 後谷・ヘルメットをかぶった仏様

 

 

 画像2: 後谷集落跡の遠景(ダム湖の左側)と栃ケ原ダム湖

 

 

 画像3: 桐山・「人と自然と芸術が共に息づく郷」という案内板

 

  (2018年5月6日(日)午後2時〜2時45分頃)
 

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