新潟県上越市(旧牧村) 平等(その3)

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    2017年7月31日(月)、新潟県の廃村探索、
    平等(へいとう)の集落跡、冬季分校跡について、少々掘り下げてみようと思う。

     

    五万地形図 高田東部(1955、地理調査所)には
    「平等」という地名が記されており、
    家々は田んぼの中に散在しているように見える。【画像1】
    鷹羽鉱泉も温泉マークも記されているが、道筋は今と大きく異なる。

     

    「地理院地図」Webの地形図(高田東部、2007に相当、国土地理院)には
    「平等」という地名は記されていないが、
    ふたつを見比べると、棚田が平等集落跡であることがわかる。【画像2】

    ただし、家屋の跡が田んぼになることはないので、

     

    「田んぼの間にある林にかつて家屋が建っていた」と考えるのが合理的だ。
    「地理院地図」Webでは、全国の1974年頃の空中写真を見ることができる。
    1955年五万地形図の「平等」の位置と
    1974年頃の空中写真の林の位置から、集落の中心にあったと思われる
    冬季分校跡を推定し、+印をプロットした。【画像3】

     

    情報の薄い廃村のことを、掘り下げて調べるのは楽しい。
    何かしら新たにわかることがあれば、なおよい。
    分校跡が特定できそうだったら、鷹羽鉱泉に立ち寄りがてら、
    平等を再訪するのもよいかもしれない。

     

     

     画像1:地形図に記された「平等」という地名
         五万地形図 高田東部(1955、地理調査所)より

     

     

     画像2:棚田が平等集落跡であることがわかる
         「地理院地図」Webの地形図(高田東部、2007に相当、国土地理院)より

     

     

     画像3:地形図に訪ねたときの動線をプロットする
         三差路でクルマを停めて、A→B→Cの順で歩いた

     

         A:レポートその1の画像2を撮る
         B:レポートその1の画像3を撮る
         C:レポートその2の画像1を撮る
         ※ABCの→(矢印)は、画像を撮った方向を示している。

     

    +印は、訪ねた後、画像と資料を付け合わせてプロットしたものなので、
    +印の場所には到達していない。
    現地の探索時には、「B地点のあたりに家屋があったのでは」と想像した。

     

    1960年頃の「牧局 郵便区全図」があれば、大きな力になるはずだが、
    あいにく国会図書館では、所蔵がなかった。
     


    新潟県上越市(旧牧村) 平等(その2)

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      2017年7月31日(月)、新潟県の廃村探索、
      平等(へいとう)の現地探索は、あまり時間がなかったことと、建物の類がまったくなかったことから、10分で切り上げた。
      宇津小学校平等冬季分校は、へき地等級2級、児童数11名(S.34)、昭和23年開校、昭和38年閉校。
      平等の閉村は昭和37年なので、閉校年は事務手続き上のものなのだろう。

       

      「牧村史」には「平等冬季分校の校舎は、昭和40年に鷹羽鉱泉に移築された」と記されている。
      帰り道、宇津俣から山へ2劼曚鋲った鷹羽鉱泉に立ち寄った。
      施設は休みだったが、村史に載った写真と同じ背が高い二階建ての建物が迎えてくれた。

       

       

       画像1:平等集落跡、棚田の先に道が見える

       

       

       画像2:平等までの歩道で見かけた「新潟県」名入りの小さな標柱
           何のためのものだろう?

       

       

       画像3:鷹羽鉱泉の二階建ての建物
           平等冬季分校の校舎は、昭和34年11月落成。
           落成から58年経ち、今も校舎が残ると思うと感慨深い。

       

        (平成29年7月31日(月)午後3時50分〜4時10分頃)

       


      新潟県上越市(旧牧村) 平等

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        2017年7月31日(月)、新潟県の廃村探索、
        最後の目的地 戦後開拓集落 平等(へいとう)は、平成25年秋(4年前)BAJAで上越を訪ねたとき、時間が足らないことから訪問をあきらめた経緯がある。

         

        牧区中心部から入った県道(301号柳島信濃坂線)は、宇津俣を過ぎると頼りない道幅になって、平等橋から先はダートになった。
        この県道の牧区−安塚区の区境は未開通らしい。
        「少し先に平等集落跡がある」とアタリをつけた小道の分岐点にクルマを停めて、小道を10分ほど歩くと、そこにはかなりの広さの棚田が広がっていた。

         

        今回、訪ねた多くの廃村で耕された水田を目にして、
        新潟の農家の方の農地に対する愛情の強さが垣間見えた。

         

         

         画像1:橋の銘板が「平等」という地名を伝えている

         

         

         画像2:平等集落跡には、かなりの広さの棚田が広がっていた

         

         

         画像3:棚田に交じる林(画像左手)が家屋の跡ではないかと想像する

         

          (平成29年7月31日(月)午後3時30分〜3時50分頃)


        新潟県十日町市(旧松之山町) 中原

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          2017年7月31日(月)、新潟県の廃村探索、
          旧松之山町中心部から県道を経て、天水島(Amamizusima)からはR.405(棚田ハイウェイ)をひた走る。
          道端にヤギが寝そべっていた中立山(Takatateyama)で枝道に入ると、ほどなく傾斜はあるけれども水田や畑が広がる中原(なかはら)に到着した。

           

          戦後開拓集落 中原は、昭和21年から9戸が入植。今も2戸の暮らしがある高度過疎集落だ。
          浦田小学校中立山分校中原冬季分校は、へき地等級3級、児童数11名(S.34)、昭和31年開校、昭和46年閉校。
          高々とそびえた防火水槽の看板のそばにクルマを停めて、生活感がある集落を車道沿いに坂道を上る方向に歩いた。

           

          折り返して坂道を下ったところ、畑で作業される方(Nさん、50代ぐらいの女性)の姿があったので、
          ご挨拶をしてお話をうかがったところ、中原では戦後開拓の一世の方が今も2人と健在とのこと。
          また、防火水槽の看板そばのかまぼこ型屋根の小屋が建つ場所が冬季分校跡と伺った。

           

           

           画像1:中原冬季分校跡は「かまぼこ型屋根の小屋が建つ場所」と特定

           


           画像2:玄関までの長い階段が、豪雪地帯であることを物語る

           


           画像3:中原でもヤマユリ、オニユリがきれいに咲いていた

           

            (平成29年7月31日(月)午後1時40分〜2時頃)
           


          新潟県十日町市(旧中里村) 牧畑

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            2017年7月31日(月)、新潟県の廃村探索、
            清津峡トンネル付近でR.353から枝道に入り、橋を渡って見通しのよい舗装道を進むと、やがて牧畑入口の三差路に到着した。
            さらなる枝道はコンクリの舗装があったが、急に上がる坂道だったので、その先はクルマを停めて歩いて向かった。

            10分弱歩くと視界が広がり水田が見えて、牧畑集落跡に到着した。

             

            水田のほか、作業小屋、神社跡の祠、「念三夜塔」と刻まれた石碑、家屋跡のタイル張りの風呂釜などが見られた。
            倉俣小学校牧畑冬季分校は、へき地等級1級、児童数15名(S.34)、明治41年開校、昭和47年閉校。
            作業小屋に地域の方(Mさん、50代ぐらいの男性)の姿があったので、ご挨拶してお話を伺うと、
            「冬季分校は神社の並びにあって、先生は我が家に泊まっていたものだ」と話された。

            越後田沢局 郵便区全図(S.51.10)には「牧畑 5戸」とあるが、Mさんに確認したところ「昭和47年には集団移転していた」とのこと。
            地形図と同じく、郵便区全図も万能とはいえないようだ。
            水田についてMさんは「いま通うのは私だけで、我が家が自給自足する分だけ作っている」と話されていた。

             

             

             画像1:牧畑・神社跡と「念三夜塔」と刻まれた石碑

             

             

             画像2:家屋跡のタイル張りの風呂釜

             

             

             画像3:「1戸の家が自給自足する分だけの広さ」の水田
             
              (平成29年7月31日(月)午後12時30分〜12時50分頃)

             


            新潟県津南町 横根(その2)

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              2017年7月31日(月)、新潟県の廃村探索、
              牧場のウシを眺めながらお地蔵さんや弘法大師手形石が集まる場所に足を運ぶと、
              「津南町横根集落跡地」という案内板が見つかった。
              案内板の副題は「鎮守杜の生命の水と弘法の清水」で、「平成28年5月 横根集落保存会 津南町教育委員会」と記されていた。

               

              案内板の向かいに草を刈る方(Yさん、70代後半の男性)の姿があったので、ご挨拶してお話しすると、
              Yさんの横根出身の方で、お盆に備えて鎮守様へ向かう道の草刈りをしていたとのこと。
              「一緒に鎮守様にお参りしますか」というYさんの声に、
              私は「是非ご一緒させてください」と答えた。

               

              横根の鎮守様は、森の中にひっそり佇んでいた。
              Yさんからは「横根には15戸の家々があって、田んぼはなく畑作で暮らした」、
              「私の家は鎮守様の下の今は茂みとなった場所にあった」、
              「鎮守様の下に湧く水は、乾いたことはない」、
              「そこにある杭に旗を刺してお祭りを行った」、
              「お盆に集う人の数は、年々減ってきた」など、いろいろな話を伺った。
              森の中、Yさんとお話しできたおかげで、横根がどんな集落だったかほのかに想像することができた。

               

               

               画像1:「津南町横根集落跡地」の真新しい案内板

               

               
               画像2:森の中にひっそり佇む横根の鎮守様

               

               
               画像3:「乾いたことはない」という鎮守様の下に湧く水(鎮守杜の生命の水)
               
                (平成29年7月31日(月)午前9時〜9時30分頃)


              新潟県津南町 横根(その1)

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                2017年7月31日(月)、新潟県の廃村探索2日目、
                津南町百ノ木の農家民宿「もりあおがえる」での起床は朝5時30分、天気は晴時々曇。
                朝食をとった後はご主人(中島さん)の案内で、
                百ノ木から山に入った場所にある下日出山、上日出山と横根(よこね)の分校跡へと出かけた。

                 

                台地の上の横根には、谷間の上日出山から約100mの高低差を上って向かった。
                秋成小学校横根分校(のち芦ヶ崎小学校横根分校)は、へき地等級3級、児童数35名(S.34)、大正2年開校、昭和45年閉校。
                横根集落跡は11年前(平成18年10月)に訪ねたが、分校跡は今回が初めて。
                特に何もなかったが、木々が茂らない平地に分校跡の匂いがした。
                中島さんは「横根分校に勤める先生は、簡単に町と行き来できなくてたいへんだっただろうなあ」と話された。

                 

                 

                 画像1:横根分校跡に続くダート

                 

                 
                 画像2:横根分校跡の平地

                 

                 
                 画像3:分校跡近くの牧草地で見かけたウシの群れ
                 
                  (平成29年7月31日(月)午前7時〜8時30分頃)


                新潟県柏崎市(旧高柳町) 居谷

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                  平成29年7月30日(日)、新潟県の廃村探索、
                  この日最後の目的地 居谷(いだに)は、戸数3戸(H.19)の高度過疎集落で、誰かと出会う可能性が高い。
                  嶺から県道をそのまま進むとすぐに柏崎市との市境があって、坂を下りきった石黒でジュースを買って小休止。
                  石黒から居谷に向かうR.353は、舗装はされているが細くて頼りない。

                   

                  やがて道の脇に「ぶな林の里 居谷」という看板が建っていて、居谷に到着したのは夕方5時25分。
                  集落の家々はR.253から入った脇道沿いに建っていた。
                  門出小学校居谷分校は、へき地等級3級、児童数9名(S.34)、明治38年開校、昭和56年閉校。
                  まず分校跡を探そうと思ったら、農作業の方(Iさん、60代ぐらいの男性)に出会ったので、ご挨拶して尋ねたところ、
                  「改装された校舎が残っていて、今は個人宅になっている」というお返事をいただいた。

                   

                  居谷出身のIさんは東京在住で、時々居谷に戻り農作業をされている。
                  「住家が3戸、通いが3戸いるが、高齢化が進んでいるので、近々無住になるかもしれない」と話されていた。
                  「神社はありますか」と尋ねると、「黒姫神社が国道沿いにある」とお返事をいただいたので、歩いてお参りに出かけた。

                   

                   
                   画像1:R.353の脇に建つ「ぶな林の里 居谷」という看板

                   

                   
                   画像2:居谷分校跡の木造校舎は、個人宅として残っていた

                   

                   
                   画像3:居谷の鎮守様 黒姫神社
                   
                    (平成29年7月30日(日)午後5時30分頃)


                  新潟県上越市大島区(旧大島村) 嶺(その2)

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                    平成29年7月30日(日)、新潟県の廃村探索、
                    旭小学校嶺冬季分校は、へき地等級2級、児童数10名(S.34)、明治39年開校、昭和47年閉校。
                    「大島村史」によると、昭和35年の嶺は34戸185人だったが、同50年には9戸21人に急減した。
                    大平局郵便区全図(S.58.9)では神社のそばに2戸ある。
                    閉村時期は住宅地図から昭和末頃と推定していた。

                     

                    県道からよく見える傷んだ家屋の対面には整った作業小屋があった。
                    先に進むと神社跡へ続く石段が見つかり、階段を登り切るとコンクリ造りの祠が迎えてくれた。
                    季節柄、あちこちに白いヤマユリが咲いている。
                    神社から県道に戻る途中、作業小屋の脇の小道を入ると、「嶺閉村之碑」が建っていて、
                    裏面には離村時期(昭和56年6月)が明記されていた。

                     

                    探索は1時間弱,嶺では誰にも出会わなかった。

                     

                     
                     画像1:神社近くの森からは、2階建ての作業小屋が見えた

                     

                     
                     画像2:黒姫神社跡にはコンクリの祠が鎮座していた

                     

                     
                     画像3:「嶺閉村之碑」の傍らのお墓には、「倶會一處」と刻まれていた 
                     
                      (平成29年7月30日(日)午後4時45分頃)
                     


                    新潟県上越市大島区(旧大島村) 嶺(その1)

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                      平成29年7月30日(日)、新潟県の廃村探索、
                      角間からは農道をそのまま進み、藤尾で県道(78号大潟高柳線)に出て嶺へと向かった。
                      嶺は大字嶺の中心集落で、藤尾、竹平、角間が大字嶺に含まれる。
                      藤尾から2劼曚匹埜道沿いに碑が見当たり、嶺集落跡に到着した。

                       

                      クルマを停めて「地理院地図」Webの地形図を確認すると、そばには鳥居マークが記されている。
                      まず碑が何かを確認したところ、それは個人のお墓だった。
                      探索をしたところ、嶺でも耕された水田が見られ、そばには朽ちた家屋が残っていた。

                       

                       

                       画像1:嶺でも耕された水田があった

                       

                       
                       画像2:水田のそばには朽ちた廃屋が見られた 

                       

                       
                       画像3:白いユリ(ヤマユリ)の花の奥に、朽ちた家屋の屋根が見える
                       
                        (平成29年7月30日(日)午後4時20分頃)


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