蟻ケ原 未達

  • 2019.10.04 Friday
  • 06:56

令和元年6月上旬、石川県・能登の廃村探索、
この日の天気予報は、午前よりも午後のほうが降水確率が高い。
福光を出発したは11時頃。時間的には何とかなりそうなので、帰路をたどりながら旧鹿島町の農山村の廃村 蟻ケ原(ありがはら)を目指すことにした。
旧鹿島町二宮に着いた頃には雨になっていて、当初「ここから歩こうか」と予定を立てた能登二宮駅は跨線橋から屋根を見ただけで通過した。

 

二ノ宮川沿いの道をさかのぼると、蟻ケ原入口の三差路に「林道中山線 延長1100米」の標柱があった。
「行けるところまで行こう」とクルマを走らせたが、道は林道終点で途絶えていた。
雨の中、藪こぎをする気力は湧かず、これをもってあっさり撤退した。
現地に行って様子が確かめられたことで、それなりの満足感を得たが、駅から歩いて出かけていたら、がっかりしていたことだろう。

 

 

 画像1:蟻ケ原入口・「林道中山線 延長1100米」の標柱があった


 

 画像2:蟻ケ原入口・草生した林道の終点

 

 

 画像3:蟻ケ原へ続くと思った道は、林道終点で途絶えていた

 

 (2019年6月10日(月)12時50分〜午後1時20分頃)

 

石川県能登町(旧内浦町)福光

  • 2019.10.03 Thursday
  • 06:38

令和元年6月上旬、石川県・能登の廃村探索、
見附島からは海岸近くの道を旧内浦町松波へと進み、松波から内陸に入り、戦後開拓集落の廃村 福光(ふくみつ)を目指した。
松波小学校福光分校は、へき地等級1級、児童数3名(S.34)、昭和34年開校、昭和39年休校、同42年閉校。
開拓集落 福光は昭和27年に成立、酪農を生業としたが、昭和42年頃無住となった。
松波局郵便区全図(S.50)には、福光の戸数はゼロとある。

 

現地には分校跡校舎が農業用倉庫として残るが、他に開拓集落の痕跡は見当たらず、校舎ということを知らなかったら見過ごしていたことだろう。
地内にはブルーベリー園や畑があり、草刈りをする作業の方の姿が見られた。
青空が広がるほど穏やかな天気だったのは、ありがたいことだった。

 

 

 画像1:福光・分校跡校舎(その1)
     校舎はわかりやすい場所にあり、すぐに見つかった。

 

 

 画像2:分校跡付近の風景
     「木質堆肥を作っています」と記された案内板が建つ

 

 

 画像3:分校跡校舎(その2)
     校舎以外に、開拓集落の痕跡は見当たらない。

 

 

 画像4:分校跡校舎(その3)
     周囲には畑が広がっていた。

 

 (2019年6月10日(月)午前10時45分〜11時10分頃)

 

新保再訪(3回目)

  • 2019.08.10 Saturday
  • 07:55

令和元年8月上旬、石川県小松市の廃村探索、
光谷(みつたに)に続いては、福井県境に近い新保(しんぼ)を目指した。

新保は手取川水系大日川上流部にあり、標高は549m(学校跡)。
小松駅から30劼任△襦

新保など5集落あった能美郡新丸村(昭和31年編入で小松市)は、
製炭業の衰退などのため、過疎の進行が著しく、
昭和50年頃に冬季無住となった。

 

新保を訪ねるのは、2年4ヵ月ぶり3回目。
まず、集落手前側にある養魚場を兼ねた食事処「いわな庵」を訪ね、
いわなの塩焼きを食しながら、ご主人(Nさん)に新保のことをうかがった。
懸案だった「国道416号の尾小屋から先の区間は何年から冬季通行止だったか」の答は
「ずっと」ということがわかった。
つまり、新保、花立、丸山では、冬を越す生活があった頃から
積雪期にクルマが走ることはなく、
用事があるときはカンジキを履いて歩いて尾小屋まで行っていたのだった。

 

続いて、集落中心部、新保神社へ足を運び、村の長老(Kさん)の家を訪ねた。
Kさんは春夏秋はほぼ毎日小松市内から新保の家へ通っているという。
Kさんから話をうかがうことにより、
「昭和50年頃には冬の暮らしはなくなっていた」ことがわかった。

 

長崎県への旅の流れで石川県を訪ねるというのは、我ながら強引な計画だったが、
「訪ねておいてよかった」と思った。

 

 

 画像1:新保・国道昇格記念碑
     碑には「昭和43年に促進同盟会が結成され、昭和57年昇格が実現した」
     との旨が記されている。

 

 

 画像2:新保神社
     旗ポールは真新しく、祭りが行われているのことがうかがえる。

 

 

 画像3:国道416号と別宅
     国道は、平成30年秋に福井県勝山市へ通じたばかりで、

     時々「酷道マニア」がやってくるそうだ。

 

 (2019年8月2日(金)午後1時15分〜1時40分頃)

 

光谷再訪(3回目)

  • 2019.08.09 Friday
  • 07:16

令和元年8月上旬、石川県の廃村探索、
小松駅からレンタカーを走らせて、光谷(みつたに)を目指した。
光谷は梯川支流源流部にあり、標高は213m(分校跡)。
三八豪雪(昭和38年1月の豪雪)の被害を契機に離村した。

 

光谷を訪ねるのは、2年4ヵ月ぶり3回目。
「光谷の記」の碑が建つ分校跡の平地にクルマを停めると
いきなりオロロ(小型のアブ)の襲撃を受けた。
そう、ここは真夏の北陸の山間だったのだ。

 

集落跡よりやや下手には通いで耕されている畑があるが、
探索で誰かに出会うことはなかった。

 

 

 画像1:「光谷の記」の碑
     碑がある平地では、7月中旬、有志によって
     草刈りが行われたという。

 

 

 画像2:「共同浴場跡」の碑
     往時は夕食前が男湯、夕食後が女湯で、
     湯沸かしは1週間ごとに家々で持ち回ったとのこと。

 

 

 画像3:耕されている畑と作業小屋
     暑さとオロロの襲撃を避けるため、
     窓を閉ざした車中から撮影した。

 

 (2019年8月2日(金)午前10時25分〜11時5分頃)

 

石川県(能登)の廃村に行ってきました

  • 2019.06.11 Tuesday
  • 07:05

令和元年亥年、4度目の廃村探索、
石川県(能登)の廃村に行ってきました(1泊2日)。
訪ねた廃村は、能登町(旧内浦町)福光(ふくみつ)で、単独です(初訪1か所)。

 

能登半島は訪ねること自体が初めて。
「どんなところなのか」と、旅自体を楽しむことを主として動きました。
羽咋市街で前泊、輪島朝市、白米千枚田、揚浜式塩田、禄剛崎をめぐり、
能登の自然と気質を堪能しました。

 

北陸の梅雨入りが予想よりも早く、よく天気予報をチェックしましたが、
時折晴れ間がある穏やかな天候に恵まれました。
もう一つの目標 中能登町(旧鹿島町)蟻ケ原(ありがはら)は
雨の中、通じる道がはっきりしなかったので、現地手前で撤退しました。

 

 

 画像1:白米千枚田(しろよね せんまいだ)
     現地案内板の「農業の聖地」というコピーは目を引きました。
     海辺まで下りてみたけど、展望台のほうが見応えがありました。

 

 (2019年6月10日(月)午前7時30分頃)

 

 

 画像2:禄剛崎(ろっこうざき)灯台
     訪ねるまで「ろくごうざき」と読んでいました。
     すぐそばに狼煙(のろし)という漁業の町があります。

 

 (同 午前9時頃)

 

 

 画像3:福光・分校跡の建物
     観光地に続いて訪ねた廃村は、台地の上にありました。
     畑の中に残る校舎は、農業用倉庫として使われている様子でした。

 

 (同 午前10時30分頃)
 

石川県小松市 光谷

  • 2017.05.13 Saturday
  • 05:30

平成29年GW、石川県小松市の廃村めぐり、
第7の目的地 木地小屋(Kijigoya)は新保から4劼曚瓢海愎覆鵑西貊蠅砲△襪、
国道には「除雪など工事作業中 立入厳禁」という看板とチェーンがあって、
行く手を阻まれた。
時間的にもちょうどよいので、木地小屋行きはあきらめて、
新保、丸山へと戻り、尾小屋、池城経由の道から光谷(Mitsutani)へと向かった。

 

光谷は比較的小松市街に近く、昭和31年までの集落名は「三ッ谷」だった。
松岡小学校三ッ谷分校は、へき地等級3級、児童数13名(S.34)、
明治18年開校、昭和39年閉校。分校跡には見慣れない「光谷の記」と刻まれた碑が建っており、
見慣れた「ふるさとセンター」の建物はなくなっていた。
碑の表面には「平成26年5月 光谷会建立」と刻まれており、碑は離村50周年を記念して建てられたらしい。
碑文には「昭和38年の豪雪によって、全町上げて取り組んでいたりんご園が壊滅、
閉町のやむなきに至りました」と記されていた。

 

碑の裏面には「ふるさとセンター」に掲げられていた住宅配置図が継承されていた。
この図と新しい石柱のおかげで、共同浴場跡を見つけることができた。
その他、神社跡、住宅跡の水回りが見つかったが、集落はおおむね森へと還っていた。
集落跡、光谷生水(湧水)の少し手前には、往時からの耕地が見られた。
地域の方の姿が見られたが、遅くなったこともあるので、遠目に見るだけにした。

 

 

 画像1 分校跡に建てられた「光谷の記」の碑

 

 

 画像2 碑の裏面に刻まれた「ありし日の光谷町略図」

 

 

 画像3 新しい石柱と共同浴場跡の浴槽

 

   (2017年4月30日(日)午後4時55分〜5時30分頃)

石川県小松市 新保

  • 2017.05.12 Friday
  • 06:46

平成29年GW、石川県小松市の廃村めぐり、
第6の目的地 新保(Shinpo)の新丸村成立時(明治22年)の戸数は135戸、
村でいちばんの規模を誇った。

 

新保神社の鳥居前にクルマを停めて、そばに立つ「国道昇格記念碑」(昭和59年建立)を確認する。
新保には別荘のような新しい家屋が多く建っている。神社の境内には、日なたにも雪が残っていた。

 

新保小学校は、へき地等級4級、児童数18名(S.34)、明治9年開校、昭和41年閉校。
学校跡は橋のそばの川沿いだが、クルマから見る分にはササ藪にしか見えなかった。
橋の下手にコーヒーの看板がある養魚場があり、ご主人の姿があったので、
ご挨拶をすると学校跡について教えていただけた。

 

改めて訪ねると、雪の壁の向こうに学校跡に建つ雨量観測所が見つかった。
林さんが持参したドローンで空撮して確認すると、はっきりと学校跡だとわかった。

 

 

 画像1 新保神社の鳥居と「国道昇格記念碑」

 

 

 画像2 学校跡に建つ雨量観測所

 

 

 画像3 ドローンで空撮した新保小学校跡(林さん撮影)

 

   (2017年4月30日(日)午後3時30分〜4時21分頃)

石川県小松市 花立

  • 2017.05.11 Thursday
  • 07:02

平成29年GW、石川県小松市の廃村めぐり、
第5の目的地 花立(Hanatate)の昭和31年までの集落名は「須納谷(Sunodani)」だった。

 

「小松市花立町」と記された案内板のあたりにクルマを停めて、探索を開始すると、
いくつかの整った家屋と春の花が迎えてくれた。
暖かな晴天で、耕された畑が見られ、「桃源郷」という言葉が頭に浮かぶ。
同行の林さんの頭にも浮かんだようだ。

 

新保小学校須納谷分校(のち新丸小学校須納谷分校)は、
へき地等級4級、児童数24名(S.34)、明治18年開校、昭和43年閉校。
ゼンマイを天日干しする地域の方(年配の女性)の姿があったので、
ご挨拶をして分校跡について尋ねると、
神社跡とともにお返事をいただくことができた。

 

前回(9年前)ははっきりわからなかった分校跡だが、
今回ははっきりしたコンクリの階段を見出すことができた。
階段を上った場所には枯れ草が倒れたグランドが見られた。

 

 

 画像1 花立集落に建つ作業小屋と春の花              

 

 

 画像2 耕された畑が見られる

 

 

 画像3 須納谷分校跡へと続くコンクリの階段

 

   (2017年4月30日(日)午後2時50分〜3時20分頃)
 

石川県小松市 丸山

  • 2017.05.10 Wednesday
  • 07:03

平成29年GW、石川県小松市の廃村めぐり、
第4の目的地 丸山(Maruyama)は、昭和31年までは能美郡新丸村の村役場所在地だった。
小原から県道で丸山に入り、木造2階建ての建物の前にクルマを停めて、探索を開始した。

 

新丸小学校(休校後 尾小屋小学校新丸分校)は、へき地等級3級、児童数37名(S.34)、
明治9年開校、昭和44年休校、昭和47年閉校。
学校跡に建つRC造2階建て、尖った屋根の「丸山町集会所 研修センター」には
「昭和59年度 電源立地促進対策交付金施設」の銘板があった。

 

漁協関係の年配の男性とお話をすると、昭和45年頃から冬期無住で、
今年は雪が多くて3月には国道のゲートが開かなかったらしい。
また、学校跡のグランドは集会所よりも一段高くて、枯れ草が倒れた広い平地になっていた。

 

あまり時間がなく、神社(谷郷社)に行けずだった。

また、9年前、国道沿いで見かけた新丸診療所跡の建物は、取り壊されたようだった。

 

 

 画像1 「町内会事務所」だった木造2階建ての建物              

 

 

 画像2 学校跡のグランドと「丸山町研修センター」

 

 

 画像3 無住家屋の前に咲くカタクリの花

 

   (2017年4月30日(日)午後2時20分〜2時40分頃)
 

石川県小松市 小原

  • 2017.05.09 Tuesday
  • 05:58

平成29年GW、石川県小松市の廃村めぐり、
第3の目的地 小原(Ohara)は,大日川ダム建設にともない生じた廃村で,
集落跡は水没している。

 

私は平成20年6月に津江を除く旧新丸村の5集落に足を運んでおり,
今回は9年ぶり2度目。
阿手(川の下流方向)から大日川ダム堤体を経て小原に入り,
ダム湖沿いの「古里憩いの場」にクルマを停めた。

 

ダム湖側には四阿と「小原のふる里」と刻まれた碑が建っていた(平成10年11月建立)。
隣には集会所らしき建物があった。
山側には「湖底に故郷 小原あり 離村50周年記念碑」が建っていた(平成20年6月建立)。

 

新丸小学校小原分校は,へき地等級3級,児童数6名(S.34),
明治11年開校,昭和34年閉校。
地形図の小原の文マークは,憩いの場より少し上流側に記されているが,
ダム湖を眺めてもどんな集落・分校があったかは想像できなかった。

 

 

 画像1 ダム湖畔に建つ「小原のふる里」の碑              

 

 

 画像2 山側に建つ「離村50周年記念碑」

 

 

 画像3 かつて小原集落があった辺りの大日ダム湖

 

   (2017年4月30日(日)午後1時55分〜2時10分頃)
 

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