『丹後の大集落 木子と駒倉はどのように消滅したか』
- 2024.02.03 Saturday
- 07:31
『丹後の大集落 木子と駒倉はどのように消滅したか』
●坂口 慶治著
◆1,980円(税込)・四六判・254頁・海青社・滋賀・2023/12 刊・ISBN978-4-86099-416-7
木子、駒倉(京都府宮津市)は、かつて丹後半島東部の山地地域の中軸的集落で、明治23(1890年)には木子は55戸、駒倉は46戸を擁した。ともに主な生業は農業(稲作、畑作)で、養蚕、林業、牛の肥育(子牛取り)などで、丹後地域の各地では機織業が盛んに行われていた。
その後、両集落は徐々に規模を縮小し、昭和37年には木子は26戸、駒倉は22戸となった。著者はこの年を「部分廃村化」の開始としているが、それは離村戸の階層や離村理由、耕地の売買の有無など、綿密な調査に基づいてのものだった。
そこに38年1月、三八豪雪が起こり、39年の牛肉輸入拡大政策が追い打ちをかけた。木子では住民間の分裂が起こり15戸の「準廃村化」段階となり、駒倉では11戸残留の状態で集落の解散、すべての土地の営林署への売却等が決まった。翌40年、9戸が区会決議による集団移転に応じた。昭和48年、最後まで残った2戸の離村によって駒倉は「全面廃村化」した。
その年5戸になった木子では、新たな住民1戸が転入した。著者は最後の旧住民2戸が離村した平成6年を木子の全面廃村化としている。なお、新住民の転入は平成8年までに累計17戸あったが、根付くことは難しく、令和期に残るのはペンション経営、牧場経営の3戸となっている。
類似した二つの集落が廃村に至るまでのことを、その立地、自然災害歴、火災歴、行政区域の変遷、学校の設置、電灯の導入、通婚圏といった様々な要素を織り交ぜて比較し、一挙に載せた本書は、集落の廃村化の機構と要因を明確にするための貴重な資料となることだろう。(HEYANEKO)
※ 22字/行×30行=640字
===
年末に突発性難聴で入院したとき、「じっくり読むにはよい機会」と思い、『丹後の大集落 木子と駒倉はどのように消滅したか』を病院に持って行った。
私は地方・小出版流通センターの情報誌「アクセス」に、新刊の案内を不定期で記しているのだが、この本についても案内を記してみたくなった。
残念ながら、版元(海青社)と地方小はやり取りがないため、このたび当方のブログ・SNSからの案内の発信をすることになった。