岐阜県本巣市(旧根尾村) 越波(その2)

  • 2019.06.16 Sunday
  • 07:51

令和元年5月GW、岐阜県の廃村探索、
越波(おっぱ)を訪ねるのは平成12年GW以来、実に19年ぶり。
掲示板には「ふるさと越波だより」という地域情報誌と年間行事表が貼られていた。
また、願養寺、八幡神社はしっかり維持管理されており、集落はしっかりとしているように見えた。
 

「ふるさと越波だより」の縁で、後日、事務局の後藤秀若さんに話をうかがう機会を得た。
以前から知りたかった集落が冬季無住になった時期は、
「越波分校の児童2名が、積雪期に本校へ通うようになった昭和45年の冬から」と教えていただいた。
黒津小学校越波分校は、へき地等級3級、児童数24名(S.34)、
昭和45年より長嶺小学校越波分校、へき地等級4級、児童数2名(S.45)、
分校は昭和56年まで存続した。

 

 

 画像1:浄土真宗 願養寺
    昭和44年、寺の本尊は岐阜市内に新設された別院に移転したが、
    平成23年、有志によって改修が行われ、
    鐘着き堂(鐘楼)が「越浪和願の鐘」として再興した。

 

 

 画像2:村の鎮守様 八幡神社
    春祭り(5月GW)、夏祭り(8月お盆)、秋祭り(10月上旬)が
    毎年行われている。

 

 

 画像3:集落内の芋畑
    「弘法芋」と呼ばれる芋が、有志の手で育てられている。
    獣害防止の網がしっかり張られている。

 

 (2019年5月2日(日)午後1時55分〜2時15分頃)

 

岐阜県本巣市(旧根尾村) 越波(その1)

  • 2019.06.15 Saturday
  • 07:32

令和元年5月GW、岐阜県の廃村探索、
越波(おっぱ)を訪ねるのは実に平成12年GW以来、実に19年ぶり。
徳山本郷からだと馬坂トンネル経由、国道157号 能郷−黒津(通称「落ちたら死ぬ」区間)を通るのが近い(29辧1時間)。
しかし、案の定通行止だったので、上大須を回るルート(47辧砲鯀んだ。
ノンストップで走ると1時間20分で走ることができた。

 

「誰かいるかなあ」と思った越波だが、たどり着いてみると集落には人の姿があって、
分校跡の校舎は「越波村民の館」として整備されていた。
分校跡の一角には「ふるさと越波」という歌碑が建っていて、

隣の家の方に尋ねたところ、演歌歌手 千原富美子さんが建てられたとのこと。

 

 

 画像1:越波村民の館(旧越波分校 校舎)
     旧越波分校 校舎は、平成21年、有志によって改修が行われ、
    「越波村民の館」として会や宿泊が可能な施設となった。

 

 

 画像2:「ふるさと越波」の歌碑
     千原富美子さんは、岐阜市近郊在住の演歌歌手で、
     越波の風情が気に入って、歌を作り、さらに歌碑を建てたとのこと。

 

 

 画像3:駐車場(旧越波分校 運動場)から集落を見る
     屋根や庇の梁から、雪深い集落であることがわかる。
     越波へ通じる道は除雪されず、冬季無住となる。

 

 (2019年5月2日(日)午後1時50分頃)
 

8回目の徳山村

  • 2019.06.05 Wednesday
  • 06:03

令和元年5月、岐阜県の廃校廃村探索、
鶴見からは、いくつかのトンネルを抜けて徳山村に入った。
昭和62年12月に初めて行って以来、平成の6回を経て、令和元年の今回は8回目。
「どうしてこんなに繰り返し行くのだろうか」と自問自答してみる。
それはきっと、行くたびに新たな発見があるからなのだろう。

妻と一緒に訪ねるのは、今回が初めてだ。

 

徳山会館で中村治彦さん(会館館長)にご挨拶して、会館閲覧用に冊子『廃村と過疎の風景10』を献本した。
村発行の写真集を見ていると、小西順二郎さん(「集落の記憶」徳山村で取材した方)の若い頃の写真を見つけた。
中村さんに教えていただき、湖畔に建つ徳山本郷の「ふるさとの碑」を見に行った。
思ったよりも暑かったため、徳山村で取る予定だった昼食休みは先送りになった。

 

 

 画像1:徳山会館の敷地に建つ、徳山本郷から移設された映画「ふるさと」の碑 

 

 

 画像2:徳山会館から、徳山本郷をはじめ、7つの集落が沈む徳山湖を俯瞰する 

 

 

 画像3:徳山本郷・湖畔に建つ「ふるさとの碑」

 

  (2019年5月2日(木)午前11時〜正午頃)

 

鶴見・令和最初に訪ねた廃村

  • 2019.06.04 Tuesday
  • 07:05

令和元年5月、岐阜県の廃校廃村探索、
助手席に妻を乗せて、岐阜羽島駅のレンタカー店を出発したのは午前9時頃。
「令和最初の廃村は、徳山村にしよう」と国道417号を北上した(岐阜羽島−徳山村は63辧法
しかし、藤橋城の引力に負けて、手前の鶴見(つるみ)に立ち寄ることになった。
令和最初に訪ねた廃村は、鶴見になった。

 

川向こうの東杉原(ひがしすぎはら)にも立ち寄ると、畑仕事をされる島岡範子さん(簡易宿泊所「すぎはら」の女将)に出会うことができた。
御山神社跡の広場に立ち寄ったときに見えた善教寺は、あまり傷んでいなかった。
心配したサルの群れには出会わなかった。

 

 

 画像1:令和最初に訪ねた廃村、鶴見の由来碑 

 

 

 画像2:東杉原・善教寺はあまり傷んでいなかった 

 

 

 画像3:東杉原から見た鶴見の藤橋城(城型のプラネタリウム) 

 

  (2019年5月2日(木)午前10時25分〜10時40分頃)

 

岐阜県郡上市(旧大和町)内ヶ谷開拓

  • 2017.05.06 Saturday
  • 06:41

平成29年GW、岐阜県の廃村めぐり、
内ヶ谷開拓は内ヶ谷川(長良川支流)沿い、
標高は717m(分校跡)、県道から未舗装の林道を入った場所にある。
最盛期戸数は6戸(戦後)、

長良川鉄道郡上大和駅から18km(クルマで40分)の

戦後開拓集落である。

 

工事道から離れて1辧県道52号線(白鳥板取線)と
林道黒田亀尾島線の三差路には、お地蔵さんが奉られている。
西小学校内ヶ谷第二分校は、へき地等級4級、児童数4名(S.34)、
昭和34年開校、昭和45年閉校。
未舗装の林道を川上に向かって3卅ると「いかにも分校跡」という
石垣に囲まれた野外活動の施設が見つかった。
昭和40年代の児童数は第一分校を上回っていた
(例えば、S.42は第一分校1名、第二分校12名)。
しかし、集落再編成事業による移転(昭和45年11月)は
内ヶ谷全体で進められた。

 

主な開拓集落跡は、さらに1卆茲某覆鵑西貊蠅砲△襦
探索すると、石段、石垣、円筒状のコンクリ遺構など、
いくつかの往時からのものが見された。 
少し先には「作業小屋駐車場」があって、川の向こうに小屋が見られるなど
開けた感じがあった。

 

内ヶ谷開拓には「開拓地」というツーリングマップの表記にひかれて、
平成3年夏に行こうとしたけれども、
通じる道が通行止めのため断念したという経緯がある。
今回訪ねることで、26年ぶりの雪辱を果たすことができた。

 

 

 画像1 野外活動の施設が建つ分校跡

 

 

 画像2 円筒状のコンクリ遺構

 

 

 画像3 川向こうの小屋に続く使用不能の橋

 

  (2017年4月28日(金)午後2時〜2時40分頃)
 

岐阜県郡上市(旧大和町)内ヶ谷(その2)

  • 2017.05.05 Friday
  • 08:44

平成29年GW、岐阜県の廃村めぐり、
高台の工事道から川沿いの内ヶ谷(上会津)集落跡までの標高差は50mある。
工事の気配が薄そうな下流部の道を選んで、ゆっくりと下った。
内ヶ谷集落(開拓を含む)は昭和45年11月、集落再編成事業により解散した。
いま進んでいるダム建設が離村につながったわけではない。

 

西小学校内ヶ谷第一分校は、へき地等級4級、児童数24名(S.34)、
明治30年開校、昭和45年閉校。
分校跡は川の対岸にあったが、雪融け時期のため水量が豊富で、
すぐそばまで行きながら渡るのは危険と判断した。

 

帰り道、見下ろす場所から脇道の坂を上ると、そこには平地があって、
「白山神社」「金山神社」などの石碑と灯籠が建っていた。
イチョウの木を含めて、集落から移転したものが集められているのだろう。
その先には作業小屋らしき家屋が見当たった。

 

 

 画像1 分校跡到達を許さなかった川の流れ(その1)

 

 

 画像2 分校跡到達を許さなかった川の流れ(その2)

 

 

 画像3 神社の石碑や灯籠などが集められていた平地

 

  (2017年4月28日(金)正午〜午後1時頃)
 

岐阜県郡上市(旧大和町)内ヶ谷(その1)

  • 2017.05.04 Thursday
  • 07:01

内ヶ谷(第一分校がある小集落名は上会津)は 
内ヶ谷川(長良川支流)沿い、標高は536m(分校跡)、 
ダム工事の道から谷へと下った場所にある。 
最盛期戸数は17戸(明治期)、

長良川鉄道郡上大和駅から工事道入口までは17km(クルマで34分)、 
入口からは2辧陛綿發40分)である。 

内ヶ谷には主要地方道52号線(白鳥板取線)が通っているが、 
冬季は通行止になる。 
地区内 金山の三差路には「公共内ヶ谷治水ダム建設工事」 
「2卆莵圓止まり」という看板が建っていた。 

2km先、工事道入口には警備の方がいて 
「一般車は立ち入ることはできません」と通行を拒まれた。 
「分校跡を目指しているのですが、歩いてならば行ってもいいですか」 
と話すと、通行を許してくれた。 
入口に近い場所には、山菜取りなどで来られる方もいるそうだ。 

長靴に履き替えてダンプカーなどがときどき通る工事道を歩くこと30分で、 
上会津集落跡を見下ろす場所までたどり着いた。 

 


 画像1 金山の三差路に立つ「公共内ヶ谷治水ダム建設工事」の案内板 
 

 

 画像2 一般車両通行止の工事道入口 
 

 

 画像3 ダム工事が進む上会津集落跡 

  (2017年4月28日(金)午前11時〜11時30分頃) 
 

岐阜県下呂市(旧金山町) 下山

  • 2016.11.23 Wednesday
  • 09:12

平成28年6月27日(月)、岐阜県・岩屋ダム建設関連の廃村めぐり、
弓掛からは来た道を戻り、3つ目の廃校廃村 下山(しもやま)へと向かった。
馬瀬大橋南側の三差路で県道431号線(下山名丸線)に入り、4劼曚匹気のぼると、
左手にひと目でそれとわかる下山の離村記念碑が見出された。
旧馬瀬村中心部はさらに上流部にあるが、訪ねるには時間がなく、碑を折り返し点とした。

 

下山の離村記念碑は、「私たちの故郷 馬瀬村下山区」という主碑と
「永久に 想い出の ふるさとを偲び しるし残さむ この碑」という詩の副碑からなり、
副碑には世帯主24名の名前が刻まれていた。-
移転先を見ると、下呂市旧萩原町と関市が多く、地元旧馬瀬村は皆無だった。
五万図と見比べると、石碑は下山地内の中垣内(なかがいつ)という小集落が
湖底となったあたりに建てられている様子だった。

 

 

 画像1 下山の離村記念碑(主碑)、「私たちの故郷」(昭和51年建立) 

 

 

 画像2 下山の離村記念碑(副碑)、世帯主24名の名前が刻まれていた

 

 

 画像3 離村記念碑から見た東仙峡金山湖(岩屋ダム湖)

 

 (2016年 6月27日(月)午後2時20分頃)

岐阜県下呂市(旧金山町) 弓掛(その2)

  • 2016.11.20 Sunday
  • 08:08

平成28年6月27日(月)、岐阜県・岩屋ダム建設関連の廃村めぐり、
住宅地図に多くの建物が記されていたので、私は長らく弓掛(ゆがけ)を高度過疎集落と考えていた。
しかし、それは誤りで、弓掛集落のうち水没しなかった部分については、「飛騨金山の森キャンプ場」という野外活動施設として活用されていたことがわかった。

「飛騨金山の森キャンプ場」Webによると、弓掛の離村は昭和48年、キャンプ場の開設は昭和54年。運営者の有限会社 弓掛観光開発は、地域の方が運営されていた。

 

弓掛に滞在できる時間は1時間弱。「何を見ようか」とキャンプ場の総合案内所そばにクルマを停めて、上流方向に歩いていると、川(弓掛谷川)に吊り橋跡の橋台が見当たった。五万図を見ると、中平から対岸の奥平に渡る下手の橋のようだ。
今架かる橋(長渕橋)で右岸に渡ると、石垣などに往時の匂いが感じられた。石垣を頼りに川に近い人工林を歩くと、右岸に残る橋台を見つけることができた。
右岸のキャンプ場の名前を確認すると、奥平ではなく上平だった。

 

神社(白山神社)の所在がわからないので、総合案内所対面の炭焼窯の辺りで作業をされていた観光開発の方に尋ねたところ、「少し下流側の小高い山の斜面に残っている」と教えていただいた。
県道から枝道に入って、心当たりをたどっていくと、枝道を横切るような参道が見出され、左に折れて石段を上がると整った神社の拝殿が迎えてくれた。
拝殿からまっすぐ参道を下りていくと、その先には灯籠が待っていた。キャンプ場のバンガローのそばに起立する灯籠は、微妙に調和していた。

 

弓掛に心地よさを感じたのは、月曜の昼下がり、観光の方の姿がわずかたったことと、この地を愛する地域の方が運営されていたことからなのだろう。

 

 

 画像1 長渕橋のそば、人工林の中に残る弓掛谷川右岸の橋台

 

 

 画像2 整った白山神社の拝殿

 

 

 画像3 神社参道の灯籠が、キャンプ場のバンガローのそばに起立する

 

 (2016年 6月27日(月)午後1時30分頃)

岐阜県下呂市(旧金山町) 弓掛

  • 2016.11.16 Wednesday
  • 06:55

平成28年6月27日(月)、岐阜県・岩屋ダム建設関連の廃村めぐり、
卯野原神社からは、か細いダム湖右岸の道を進み、細越橋で県道86号線に戻り、上流部の弓掛(ゆがけ)を目指した。
ダム湖が川に戻ったあたりで迎えてくれたのは「飛騨金山の森・押洞地区」という案内板だった。
少し先まで走ると、一目で「分校跡ではないか」と思った「憩いの家 もみじ」が見当たった。

 

東第二小学校(のち東第一小学校)弓掛分校は、へき地等級2級、児童数64名、明治6年開校、昭和47年閉校。
五万図を見ると押洞(おしぼら)は弓掛地内の小集落名で、文マークは中平(なかひら)に記されている。
場所的に見ても今残る「憩いの家 もみじ」の建物は、往時の校舎を改装したものに違いなさそうだ。
そして分校跡の平地の一角には、世帯主54名の名前が刻まれた「故郷の碑 弓掛区」という離村記念碑が建っていた。

 

 

 画像1 「飛騨金山の森・押洞地区」という案内板

 

 

 画像2 一目で「分校跡ではないか」と思った弓掛分校跡

 

 

 画像3 離村記念碑「故郷の碑 弓掛区」(昭和47年建立)

 

 (2016年 6月27日(月)午後1時頃)

 

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