匹見から新山口駅、徳山駅へ

  • 2018.05.18 Friday
  • 06:50

平成30年4月、島根県益田市近辺の廃校廃村を目指す旅。
匹見からクルマ2台で六日市ICへ向かって県道42号(吉賀匹見線)を走っていると、
10分ほどでふたつぎカーがついてきていないことに気がついた。
しばらく待っても来ないので「事故でなければよいけれど…」と匹見方面に戻ると、
七村方面の行き止まり道に入ったらしいふたつぎカーがやってきた。
「すみません、急いで空港に向かいます」というふたつぎさんとはここでお別れ。
私は亀山さんと一緒に、ゆっくりしたペースで新山口駅へと向かった。

 

中国道を走りながら、島根県の廃校廃村探索は4回目にもなるのに、
4回とも島根県内に宿泊していないことに気がついた。
残る島根県の未訪ポイントは、七村と益田市高島(離島)の2か所。
5回目には益田市街か匹見辺りで一泊したいものだ。

 

新山口駅到着は夜7時30分。

「新大阪行きは何時発かわからないけど、7時35分発とかだと嫌ですね」といって、
亀山さんとも別れた。
改札をくぐって時刻案内を見ると、上りのこだまは何と7時33分発。
発車ベルが鳴る中、エスカレータを駆け上り、何とか間に合わせることができた。 

 

 

 画像:徳山駅に停まる500系こだま
    通過待ちのため、徳山駅では7分間の停車があったが、
    この間に、構内のコンビニで弁当とビールを調達、
    画像も撮ることができた
 
  (2018年4月8日(日)午後7時50分)

旧匹見小学校と赤ちょうちん

  • 2018.05.17 Thursday
  • 06:12

平成30年4月、島根県益田市近辺の廃校廃村を目指す旅。
笹田原からは頼りない舗装道でR.488の交点 柿原に戻った。
おきのくにさんとは、1年後の再会を期してここで別れて、私は亀山さんカーに乗り換えた。
「忘れ物のないように」と確認したはずなのに、
おきのくにカーにツーリングマップを置き去りにしたことに気付いたのは、柿原から匹見への移動中のことだった。
クルマの渡り歩きにも知恵がいることを痛感する。

 

匹見では町の中心部、学校跡らしき建物がある駐車スペースにクルマを停めた。
ピンク色が印象的な建物は、その後の調べで旧匹見小学校の講堂ということがわかった。
匹見小学校は児童数496名(S.34)、昭和52年に現在地へ新築移転した。
講堂は地域の縫製工場として今も使われているという。

 

ピンク色の建物の並びには赤提灯が出ており、ふたつぎさんとトンちゃんがそちらのほうに進み始めた。
時計を見たら夕方5時15分。新山口駅はともあれ、山口宇部空港発夜8時5分の便に間に合うことを考えると、
余裕時間はわずかしかない。
「そろそろお時間」サインを出して、再会を期してハマちゃん、トンちゃんとは匹見で別れた。

 

 

 画像1:ピンク色が印象的な旧匹見小学校の講堂

 

 
 画像2:ピンク色が夕陽に照らされ、探索の終わりを告げる

 

 
 画像3:ピンク色の建物の並びの道には、赤提灯が出ていた
    (トンちゃん撮影) 
 
  (2018年4月8日(日)午後5時5分〜5時15分頃)

島根県益田市 笹田原

  • 2018.05.16 Wednesday
  • 06:52

平成30年4月、島根県益田市近辺の廃校廃村を目指す旅。
岩倉からは新しい集落道を使って馬谷小学校跡に戻り、
最後の目標 笹田原(ささたばら)には4台で向かった。

真砂小学校笹田原分校は、へき地等級1級、児童数15名(S.34)、明治20年開校、昭和44年閉校。
「廃村千選」では、笹田原の離村時期を複数の住宅地図の比較から平成22年頃としている。

 

分校跡は車道から川を渡ってすぐの場所にあり、電柵で囲われた平地にはブロックが置かれていた。
このブロックの上にはミツバチの樽が置かれるらしい。
分校跡の裏手では、崩壊した家屋の黒瓦の屋根が見当たった。
平成15年頃に笹田原を訪ねたおきのくにさんによると、
黒瓦の家屋は整然と建っていて、分校跡からそぐそばに見ることができたという。
今は藪に埋もれて、注意深く観察しないとその存在はわからなくなっていた。 

 

 

 画像1:笹田原・分校跡の平地は養蜂場として活用されている
    (トンちゃん撮影) 

 

 
 画像2:笹田原分校跡も橋を渡ったところにある

 

 
 画像3:分校跡の裏手では,崩壊した家屋の屋根が見当たった
 
  (2018年4月8日(日)午後4時15分〜4時30分頃)
 

島根県益田市 岩倉(その2)

  • 2018.05.15 Tuesday
  • 06:40

平成30年4月、島根県益田市近辺の廃校廃村を目指す旅。
岩倉分校跡から来た道へ少し戻ると、「岩栃しだれ桜」というノボリが立っていたので、
皆でこれを目指して歩くことになった。
 
サクラは大元神社の境内にあり、休憩所ではコーヒーを飲んで一服できるようになっていた。
神社の狛犬は、石段を登り詰めた場所の右脇と拝殿の右脇にあって、
「なぜ左右対称でないのか」不思議に思ったが、
「左側にあると崩落の危険があるからではないか」ということで落ち着いた。
神社へ足を運ぶのはこの探索では初めて。
私は記帳をして、萩諸島行きの代替探索が無事に進んでいることに感謝した。 
 

 

 画像1:岩倉・「岩栃しだれ桜」の案内板
    「栃」は隣集落「栃山」に由来する。
    クマ注意の看板があるのは、ここが人里だからだろうか。 
 

 

 画像2:大元神社の鳥居
    石造りのしっかりした鳥居が建っている。
    三八豪雪のときはたいへんだったことだろう。
 

 

 画像3:神社の拝殿としだれ桜
    旅先のサクラは、咲く頃をねらって見れるものではない。
    萩諸島には行けなかったが、島根で実りがある探索ができたよかった。
 
  (2018年4月8日(日)午後3時25分〜3時40分頃)
 

アマリリスの花が咲きました

  • 2018.05.15 Tuesday
  • 06:06

 

昨日(5/14(月))、わが家のルーフバルコニーで、 
アマリリスの花が咲きました。 
昨年と比べると、12日も早いです。 
#LUMIX DMC-FX50 にて撮影 

島根県益田市 岩倉(その1)

  • 2018.05.14 Monday
  • 06:59

平成30年4月、島根県益田市近辺の廃校廃村を目指す旅。
岩倉(いわくら)には、おきのくにカー、ハマちゃんカーの2台で向かった。
 
豊川小学校岩倉分校は、へき地等級1級、児童数38名(S.34)、
明治8年開校、昭和61年閉校。
戸数5戸(H.29)の高度過疎集落で、訪ねてみたところ、
斜面に広がる集落の棚田は耕されており、家々にも人の気配が感じられた。
分校跡の建物は高台に建っており、私はその遠景に
「古き良き農村風景はこんな感じだったのかな」と思った。
 
木造モルタル造校舎は、閉校後へき地診療所として使われていたらしい。
木造体育館の基礎には石垣が使われており、
「大正期以前の建物ではないか」と推測される。
窓から中を覗くと、体育館の中にはドラムなど楽器が置かれていた。
校舎の玄関横には分校跡地の碑(平成21年建立)があるが、
校舎の裏にはそれよりも古くて地味な分校跡地の碑が見られた。 

 

 
 画像1:岩倉・棚田の向こうに分校跡建物が見える

 

 
 画像2:木造体育館の基礎には石垣が使われている

 

 
 画像3:校舎の玄関横に建つ分校跡地の碑

 

  (2018年4月8日(日)午後3時〜3時15分頃)
 

「廃村千選」、画期的な更新を行いました

  • 2018.05.13 Sunday
  • 08:23

GW(2018年5月3日(木祝))、新潟県のフィールドワークの合間を縫って、
「廃村千選」で画期的な更新を行いましたので、お知らせします。

茨城県神栖市深芝浜、千葉県芝山町台宿、大阪府大阪市西淀川区西島の3か所を
「廃村千選」に追加しました。


茨城県、千葉県、大阪府は、それぞれ従来「廃校廃村はゼロ」としていたのですが、
一気にすべて「廃校廃村は1か所」になりました。

 

● 深芝浜(ふかしばはま) 
 ・鹿島港の南側にあり、現在集落跡は鹿島工業地域(製油所、発電所)になっています。
 ・息栖小学校深芝浜分校は昭和44年9月閉校、同年10月鹿島港が開港しています。
 ・閉校、開港と同じ頃(昭和44年)、深芝浜集落の解散式が行われたようです。
 ・分校跡の現所在地名 東和田(とうわだ)は、昭和48年、深芝浜を改称・再編して成立したようです。

 

● 台宿(だいじゅく) 
 ・成田空港の南側にあり、現在集落跡は空港南部工業団地になっています。
 ・台宿にあった岩山小学校は昭和50年閉校です。
 ・昭和53年の台宿の戸数は31戸ですが、昭和59年にはゼロになっています(住宅地図による)。
 ・成田空港は昭和53年5月開港。離村要因は空港の騒音対策と思われ、昭和53年頃と推定しています。

 

● 西島(にしじま) 
 ・新淀川の河口付近にあり、現在集落跡は阪神工業地帯の一角(工場の敷地)になっています。
 ・西島にあった川北小学校は昭和44年4月、神崎川対岸の中島に移転しました。
 ・西島(学校跡)の標高はマイナス1m。たびたび高潮の被害があり、居住には向いていません。
 ・複数年の住宅地図の比較から、西島の無居住化は平成15年頃と推定しています。

 

深芝浜と台宿は、この3月に現地を訪ねた村影弥太郎さんからの報告で、その存在を知りました。
鹿島と成田は、見つかってしまうと「なるほど」と思える場所です。
西島は存在を把握していましたが、川北小学校が存続しているため、取り上げていませんでした。
西島には、2010年11月に足を運んでおり、レポートが「廃村と過疎の風景(8)」番外編 にあります。

 

「47都道府県すべてに廃校廃村が所在する」というのは画期的なことです。
全県踏破も未達成になるのですが、そこまでは言及しないことにしようと思います。
「県内に1か所=行ってしまえば完訪」になるので、深芝浜と台宿、年内には足を運ぼうと思います。

 

 

 画像1:深芝浜(五万分の一地形図 潮来(1969)より)
    現地で集落に係わるものは、「深芝浜交差点」の掲示板ぐらいのようです。

 

 

 画像2:台宿(五万分の一地形図 成田(1970)より)
    工業団地の中に、学校跡の碑が建っているようです。

 

 

 画像3:西島(五万分の一地形図 大阪西北部(1967)より)
    町域に西島住吉神社があります。

 

馬谷小学校跡

  • 2018.05.12 Saturday
  • 07:09

平成30年4月、島根県益田市近辺の廃校廃村を目指す旅。
西長沢入口の分岐に戻り、県道を4台で北上すると、
やがて空が広がって真砂(まさご)小学校の本校2階建てモルタル校舎が見当たった。
真砂小学校は児童数223名(S.34)。今も児童数15名(H.27)で存続するのは、
統合先候補との距離が離れすぎていることと、
地域に存続の意向が強いことからという。
所在地が波田(はだ)なのに学校名が真砂なのは、
昭和の大合併以前の村名が使われていることによる(美濃郡真砂村、S.30編入)。
 
旧真砂村では馬谷(うまだに)にも小学校があった。
岩倉にはこの小学校跡校庭から先はクルマを2台に絞って行く予定を立てている。
おきのくにさんは「校舎は残っているけど、味わいはないですよ」などという。
助手席の私は「行ってみてのお楽しみでしょう」と答えた。
 
馬谷小学校は児童数82名(S.34)、平成15年閉校。
やがて見えてきた小学校跡の校舎は平屋建て木造モルタル造の地味な建物で、
玄関には「城山会館」という標札があった。
校庭に地域の方(Uさん)の姿があったので、ご挨拶をして
「運動場にクルマを停めてもよいですか」と尋ねたところ、了承を得ることができた。
Uさんと「学校跡を訪ねる旅をしているんですよ」と話をしているうちに、
校舎を見学させていただくことになった。
 
校舎の中は公民館に改装されていたが、
黒板や児童の卒業作品、40年にも及ぶ卒業写真の掲示など、
学校跡ならではのものがたくさん残っていた。
校庭より一段高い場所に残る馬の像もインパクトがあり、
「馬谷小学校跡は味わい深い」と頭の中に刻まれた。 

 

 
 画像1:馬谷小学校跡・公民館として残る校舎
    学校跡という雰囲気は薄く、味わいはない。

 

 
 画像2:校庭と一段高い場所に残る馬の像
    学校跡の雰囲気は色濃い。
    校名と掛け合わせた馬の像も、印象深くてよい。

 

 
 画像3:校舎の中に残る「思い出の馬谷小学校」のプレート
    光の加減でうまく写っていないが、
    平成14年度(最終年度)の児童5名の名前も刻まれている。
    真ん中の木造二階建ての体育館は、取り壊されていた。

 

  (2018年4月8日(日)午後2時15分〜2時35分頃)

島根県益田市 西長沢

  • 2018.05.11 Friday
  • 07:10

平成30年4月、島根県益田市近辺の廃校廃村を目指す旅。
滝谷入口に戻り、R.488匹見川沿いを先に進み、旧匹見町澄川からは県道54号線(益田澄川線)に入って走る。
この県道はまさしく「険道」で、「対向車が来たらどうなるんだろう」というほど道幅は狭い。
おきのくにさんによると、県道は明治期に馬車道として作られ、長らく益田市街と匹見を結ぶ主要道だったとのこと。
 
狭い県道を走ること6辧∧岐する西長沢(にしながさわ)までの枝道は、おきのくにカー、ハマちゃんカーの2台で向かった。
おきのくにさんが「竹が倒れていて通れないかも」と心配していた枝道だが、
クルマが通れるよう整えられており、分岐から600mほどで分校跡目印のお地蔵さんに出会った。
 
真砂小学校西長沢分校は、へき地等級1級、児童数11名(S.34)、明治20年開校、昭和45年閉校。
お地蔵さん正面の橋が分校跡への入口で、分校跡は草に埋もれた階段を上がった先にある。
西長沢の集落は散在しており、分校跡と離れた場所に神社があるのはわかっていたが、訪問はあきらめた。
「廃村千選」では、西長沢の離村時期を複数の住宅地図の比較から平成25年頃としているが、分校跡の様子を見るともう少し早いかもしれない。
 
分校跡の探索では、瓦のガレキにまじって材木が載った建物基礎の石垣が見当たった。
おきのくにさんは「この形の建物基礎は大正期よりも前のもので、昭和期になってコンクリ製の基礎が普及した」と話された。
なお、西長沢学校跡の標高(361m)は、今回訪ねた廃校廃村中で最も高い。 

 

 
 画像1:西長沢・分校跡への入口(左に橋、右にお地蔵さん)

 

 
 画像2:分校跡は草に埋もれた階段を上がった先にある

 

 
 画像3:分校跡・材木が載った建物基礎の石垣
 
  (2018年4月8日(日)午後1時20分〜1時45分頃)
 

島根県津和野町(旧日原町) 滝谷(その2)

  • 2018.05.10 Thursday
  • 06:39

平成30年4月、島根県益田市近辺の廃校廃村を目指す旅。
須川小学校滝谷分校は、へき地等級1級、児童数30名(S.34)、明治9年開校、昭和48年閉校。
学校跡は橋の手前にあって、おきのくにさんが平成14年に訪ねたときは校舎が残っていたとのこと。
その後すぐに道を作るため土盛りが行われて、今も残る教員住宅跡の建物は道下の平地に建つことになった。
 
滝谷での探索は、各自で三々五々に行われた。
学校跡に土盛りされた道は、棚田跡へと続いている。
神社跡がどこかにあるはずだが、急きょの代替案のため地形図は持ち合わせていない。
比較的近場を探索をしたところ、
平地の片隅に墓石のような「校地寄附紀念碑」(大正7年建立)と金網が見つかった。
亀山さんとこの碑を見ているうちに
「滝谷といえば広島ホームテレビのロケ地選定のとき、スタッフが断られたんだなあ」
と思い出した。
 
探索を行った後、すっきり広がった青空のもと、橋に集まって昼食休みをとった。
離村記念碑のサクラを見ているうちに、
私は「廃村に出向いて花見をする(イコール 廃花見)は新ジャンルにできないかな」
と思いついた。
この年のサクラの開花は早く3月下旬には全国各地で満開になったが、
滝谷のサクラが満開だったのは標高が高いからなのだろう
(滝谷学校跡の標高は313m、猪木谷は181m)。 
家屋に隣接する倉から教室で使われていたと思われるの椅子をお借りして、
離村記念碑とサクラをバックに集合写真を撮った。
 
現地では探す気にはならなかった神社跡だが、後日「地理院地図」Webで調べたところ、
鳥居マークは学校跡から少しだけ先にある小山の上にあった。
 
 
 
 画像1:滝谷・「校地寄附紀念碑」と金網が残る
 
 
 
 画像2:教員住宅跡の建物も残っている
 
 
 
 画像3:離村記念碑とサクラをバックに集合写真を撮る
 
  (2018年4月8日(日)午前11時45分〜12時30分頃)
 

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